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2002年03月31日(日)
2002年3月31日。

毎日新聞の記事より。

<テレビゲーム>90分以上する子は立ちくらみなど増える

 パソコンやテレビゲームを1時間半以上する子供は、立ちくらみや、どうきなどの症状を訴える割合が高くなることが27日、日本学校保健会の調査結果で分かった。

 調査は昨年1〜2月、全国11都県の小学校から高校まで計51校約6900人を対象に実施。身長や体重、睡眠時間などの生活習慣を調べた。

 立ちくらみやめまい、どうき、体のだるさなど「起立性調節障害」の症状の有無を聞くと、中学生の男子14%、女子26%、高校生の男子18%、女子30%が「ある」と答えた。94年度調査と比べて女子で10ポイント以上増加している。

 自宅などでのパソコンやテレビゲームの時間との関連を調べると、「90分まで」の子供より「90分以上」の子供の方が立ちくらみなどを訴える割合が2〜3割高かった。調査報告書は「このような症状を訴える生徒は、パソコンやテレビゲームの時間を90分程度にとどめることが望ましい」としている。

 調査を担当した大澤清二・大妻女子大教授(行動疫学専攻)は「生活の乱れが背景にあり、それを改善すれば症状はほぼなくなる」と話している。 

〜〜〜〜〜〜〜
その昔、「ゲームは一日1時間!」って言いながら連射していた、ゲームの上手なおじさんがいましたねえ。僕は、一日一時間しかやらなくて、「名人」になんかなれるわけないだろう!と子供心に思っていましたが。
さて、この「パソコンの害悪」を訴える新聞記事なのですが、これによると「パソコンやゲームを90分以上やると、起立性調節障害が起こりやすくなる」という結論なのです。で、これは別にパソコンやゲームに限ったことではなく、座ったまま熱中する作業を一定時間以上続けると起こってくる「肩頚腕症候群」の症状だと思うのですが。
実際、一日90分以上ゲームやパソコンができる子供は、たとえば帰宅部で身体を動かす機会が少なかったり、寝不足だったりするので、ストレスが蓄積されている状態ではあるでしょう。人によっては、身体を動かすことのほうがストレスとなりうる場合もあるのだろうけれど。
それだけ、パソコンやゲームが熱中できるものだということなのかな。

むしろ、8年前より、女子で10ポイントも上昇しているということが、僕には疑問なのですが。
この結果には「女の子」を商品として取り込んでしまった社会のひずみが、現れているような気がするのです。考えすぎ?
それとも、女の子もパソコンやゲームをするようになったからなのか。

それにしても、よく「乱れた生活習慣が」というけれど、今の世の中では、その「乱れた習慣」がスタンダードになってしまっていると思うのですが。
じゃあ、昭和40年代くらいの「正しい生活習慣」に戻れといわれても、困惑してしまうわけで。

でもまあ、症状が出やすくなるのは事実なので、パソコンはあまり長時間やりすぎないようにしたほうがいいのは、間違いないけれど。






2002年03月30日(土)
2002年3月30日。

梶井基次郎「桜の樹の下には」より抜粋(今回は、青空文庫を参照させていただきました。)

桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

〜〜〜〜〜〜〜
あまりに有名な、この文章。僕にも、桜を観ると思い出すことがあります。
もう、かれこれ7、8年前の話。当時、大好きだった後輩と結局すれ違いになってしまい(最初に相手に告白されたときには、僕が困惑して返事ができず、その後、僕から告白したときには、相手にはもう他の好きな人ができていた、という状況)振られてしまってから、2週間くらいのときの話。

僕たちは、表面上は今までどおりの部活の先輩後輩として、たぶん何も変わらない関係を続けていました。ちょうどこの春の時期ですから、一緒に新歓をしたり、練習をしたりの日々。先日、2人の間で起こった破綻は、2人だけの秘密。
そんななか、僕たちの共通の友人であり、彼女の同級生が、ある夜、「花見に行きましょう!」言ってきたのです。それも、彼女と3人で。
断ればよかったのに、なぜか断れずに肌寒い中ビールなど飲んでいたのですが、実際に彼女を前にすると、何も話せなくなってしまう僕。
ぎこちない彼女。見事に咲いた夜桜を前に、噛み合わない3人の宴は、沈黙とともに続いたのでした。
そういえば、追い出しコンパのとき、この同級生に「あのときは、いったいどうしたんですか?」と訊かれたなあ。
なぜか、このときに夜空に浮かんでいた桜の生白くて艶やかな印象だけは、心にずっと残っているのです。
彼女の顔の輪郭は、年とともに輪郭がぼやけてきたような気がするのだけれど。

春は、出会いと別れの季節、そして、桜の季節。
僕は、桜の樹の下には、あの頃の妙に構えすぎて生きていた自分の気恥ずかしくなるような記憶の残像が、埋まっているような気がしているのです。





2002年03月29日(金)
2002年3月29日。

「日記をつける」(荒川洋治著・岩波アクティブ新書)より抜粋。

【作品の長さについては、ぼくは以前から次のような考えをもっている。四〇〇字詰原稿用紙で「何枚」というとき、次のようなことをこころがけるのだ。
1枚→どう書いても、何も書けない。(週刊誌の一口書評など)
2枚→何も書けないつもりで書くといいものが書ける。(新聞の書評など)
3枚→一話しか入らないのですっきり。起承転結で書く。二枚半あたりで疲れが出るので休憩をとる。(短いエッセイなど)
4枚→一話ではもたないので、終わり近くにもうひとつ話を添える。(エッセイなど)
5枚→読む気になった読者は、全文読む枚数。見開きで組まれることが多く、作品の内容が一望できるので、内容がなかったりしたら、はずかしい。原稿に内容があるときはぴったりだが、内容がないときは書かないほうがよい。「書くべきか、書かないべきか」が五枚。
6枚→読者をひっぱるには、いくつかの転調と、何度かの休息が必要(同前)。
7枚→短編小説のような長さである。ひとつの世界をつくるので、いくつかの視点が必要。(総合誌のエッセイ、論文など)

この7枚以上になると、書くほうもつらいが読者もつらい。読者は読んだ後に「読まなければよかった」と思うことも多い。2、3枚のものなら、かける迷惑は知れているが、7枚ともなると「責任」が発生する、いわば社会的なものになるのである。7枚をこえて、たとえば10枚以上にもなると、読者は「飛ばし読み」をするから、意外に書くのは楽である。読者を意識しないほうが、むしろいいくらいだ。】

〜〜〜〜〜〜〜
文章の長さについての筆者の見解。もちろん、これは「見開き」とかいう表現が使われているように、活字での刊行物を意識したもので、そのままWEB上の文章にあてはまるものではありませんが。
まあ、短いほうは、なんとなくわかります。ただ、四〇〇字でも書くのはけっこう大変なんだけどなあ、と思うくらいで。
僕などは、長い長い文章を書くと、「ああ、気合の入った文章が書けた!」と祝杯をあげたいような気分になるのですが、読み手からすると、ただ長いだけの文章というのは「読んで損した」と思われるようなものになりがちなんですね。反省せねば。
確かに、僕も読み手としてあまりに冗長な日記は飛ばしてしまいます。
雑誌みたいに「これも値段のうち」なんてことはないし。

ちなみに、僕は「さるさる日記」でも日常雑記を書いているのですが、「さるさる日記」のシステムって、「一日1000字」なんです。(もちろん、分割して書けば、1000字以上の日記を書くことも可能なんですが)
まあ、だいたい一日分を1000字におさめるようにしたいと考えているのですが、1000字というのは、微妙な数字。書きたいことがないときには長すぎるし、書きたいことがあるときには、短すぎる。
「長すぎるのを削る」ような書き方をしていくほうが、たぶんいいものになるんでしょうけど。もしくは、書けないときは、思い切って短くしてしまう、とか。

でも、このリアルタイム性というか、まとまりのないダラダラ感みたいなのが、WEB日記の魅力のひとつなのかもしれませんが。



2002年03月28日(木)
2002年3月28日。

朝日新聞WEB版の記事より抜粋。

【栃木県黒磯市の市立黒磯北中で98年、女性教諭が1年の男子生徒にナイフで刺されて死亡した事件で、遺族が同市と男子生徒の両親を相手取り、計約1億3800万円の損害賠償を求めた訴訟は27日、宇都宮地裁(羽田弘裁判長)で市との和解が成立した。市は、一般論として、「わが国の学校教育現場において教師が生徒の暴力により、生命、身体の安全を脅かされる危険に直面しうる状況が存在する」と認めた。その上で▽子どもの暴力に対し、教師に正当防衛を認める▽学校の各教室に非常ベルを設置し、教職員にも携帯の防犯ブザーを配備する▽子どもの所持品検査に関する基準をつくる−−などの具体策を示した。少年法改正の大きな契機となったこの事件は、学校現場に教師の「自衛策」を徹底させる結果をもたらした。】

〜〜〜〜〜〜〜
なんとも哀しい話。この記事を読んで、暗澹とした気持ちになった人も多いはずです。果たして、そこまでして「義務教育」を行っていく必要性があるのだろうか?と僕は思いました。確かに、アメリカでは銃を持った警備員がいる学校は全然めずらしくないということではありますが。
もう、学校に来たくない、もしくは来ることによって他人が危険にさらされるような生徒は、教育を受ける権利がないのではないか、という気がします。
生徒が怖い、何を考えてるかわからない、という不安は、先生たちからよく耳にします。ましてや、この事件のようにちょっと注意しただけで、刺されるような状況では、先生たちも警備員を従え、防弾チョッキを羽織り、マシンガンを抱えて教壇に登らなくてはならないのではないかと。
刺されそうになったら、刺し返すのも正当防衛にはちがいありませんから。
とくに、この哀しい事件のように、若い女性の先生にとっては、高校生くらいなら、相手のほうが力が強いことも充分ありえるわけで。

でも、あえて言います。先生たち、がんばってください!
教師という仕事は、ほんとにやりがいがある仕事だと思いますし、尊い仕事だと思いますよ。マスコミにはさんざん叩かれているけれど、いい先生、たくさんいると思うのです。予備校のカリスマ講師のほうが尊敬されてるなんて報道されてますが、あの人たちは、受験勉強のプロとして敬われているのであり、また、ほんとにカリスマ講師として尊敬されているのは、予備校講師なのかのごくごく一握りです。
普通の学生生活を送ってきた人間にとっては、心に残る先生って、たぶんいるだろうと思うのです。人格的な影響も受けているでしょう。
こんな時代だからこそ、熱意と理性と愛情を持った先生が必要なのです。人間って「教育」を受けないと実際のところ学ぶことの面白さや意義を理解できないと思うから。

教師という仕事は危険です。いや、古来から危険なものでした。他人にものを教えるというのは、人格に影響を及ぼしていくことだから。歴史に影響をおよぼしてきた「先生」たち、非業に倒れた「先生」たちが、いかに多いことか。
先生は、本来命がけの仕事だと、僕は思ってます。
だからこそ、もっとプライドを持って仕事をしてもらいたいし、周りももっと先生を尊重してあげてもいいんじゃないでしょうか。
変な手錠教師とかを興味本位に報道するばっかりじゃなくてさ。
大部分の先生と生徒たちは、警備員や防犯ベルに囲まれて、お互いにビクビクしながら過ごす学校生活なんて、イヤだと思ってるに違いないです。

でも、こういった事件について考える時、はたしてすべての子供に学校で教育を受けさせることが妥当なのかどうか、やっぱり疑問にはなりますね…





2002年03月27日(水)
2002年3月27日。

毎日新聞の記事より。

「国会でもっと質問をしたかった」。疑惑発覚から1週間、議員辞職を決めた社民党の辻元清美衆院議員は、26日の会見で無念の思いを語った。テレビを意識してか会見の場で議員バッジを外してみせた。「議員は辞めますが、社民党は辞めません」「何か変化をもたらす辞任にしたい」。鈴木宗男、加藤紘一両衆院議員との違いを強調した。疑惑の渦中でもがく姿をさらし続けた疑惑追及のヒロイン。口調に明りょうさは戻ったが、疑惑を釈明する言葉はまだあいまいだった。

 辞職会見なのに、冒頭はなぜか「お礼」の弁。テレビを見ている国民を意識して「この会見をご覧になっている皆様、本当にありがとうございます」と呼び掛けた。

 「会見をしないで一部のテレビにだけ出た真意は」「秘書給与の還流システムを教えた人物は」「詳細な事実関係を」。報道陣の質問には「反省しています」などと抽象的な答えに終始した。

 辻元氏の会見後、土井党首も会見した。「点滴を受けている中での決断だった。重く受け止めねばならない」。愛弟子の辞職について語る口調は重い。

 辞表提出後の午後6時前。土井事務所で横光克彦衆院議員が両親に「辻元さん、激励の声が多く届いてますよ」と声をかけた。

◇社民党の対応不可解

 評論家、小沢遼子さんの話 辻元さんの議員辞職はやむを得ないと思うが、社民党が事実を知らなかったような対応をするのは不可解だ。比例代表で当選した素人議員に対し、党が政策秘書の選定にタッチしなかったとは考えられない。もしそうであれば、党として若い議員をバックアップしなかった責任がある。辻元さんの辞職にばかり注目が集まっているが、ここに至るまでの問題点はまだ明らかにされていない。

〜〜〜〜〜〜〜
非常に長い引用で、失礼しました。
この辞職会見に、辻元さんという人の問題点が、集約されていると僕は考えるのです。「もっと国会で質問をしたかった」、…悶絶。
結局、彼女がやりたかったことというのは、日本を良くすること、ではなくて自分が正義の味方として目立つこと、ではなかったのではないでしょうか。
もちろん、法案を提出する力のない今の社民党では、国会で質問するくらいしか、直接に政策にかかわる機会がないとしても。
で、「議員はやめても、社民党はやめない」とか「ご覧になっているみなさん、ありがとうございます」というような発言になっているわけですね。まさに悲劇のヒロイン(自称)。彼女は、マスメディアの力で押し上げられ、それを自分の力だと過信させられていたわけです。そのメディアが、こぞって、手のひらを返して「辻元辞めろキャンペーン」を鈴木宗男氏に対してよりも激しく展開していたのにも気づかずに。
彼女は、マスコミにいいように使われてしまっただけなのかもしれませんね。
でも、辞任のときまで、彼女はそれに気づかなかった。
辻元さんが、カメラの前でわざとらしくバッジを外しているのを映しているテレビカメラの向こうでは、コメンテーターが、「どうしてもっと早く辞めなかったのか」と言っているような状況だったのに。
この人は、おそらく全く反省されていないと思います。いや、もししているとしたら、自分の行為にではなく、やり方のまずさについてでしょう。今度はもっとうまくやらないと、と内心思っているかもしれません。
「この逆境から、立ち上がる私!」なんて未来予想図を描いてたりして。
それにしても、社民党。もっとちゃんと調べてください。このことについては、辻元さんひとりの知恵ではないはずだとみんな思っているはず。さっさと辞めさせて、忘れさせようとしているんなら、自民党と同じです。それにしても、テレビで観たこの党の議員の人、なんでみんな辻元さんと同じような雰囲気なんでしょう。

ちなみに、点滴を受けながら…という土井さんのコメントについては、ちょっと疲れた状態の患者さんで、検査をしても明らかな疾患を持たない場合、医者はたいがい点滴でお茶を濁すことが多いです。それに、彼女の体調が悪かったからといって、やったことの責任が軽減されるわけではないし「重く受け止める」根拠には全くなりません。「激励の声が多く届いている」社民党本部には、その何倍もの罵倒の声が届いていたと想像されるということも付記しておきましょう。

まあ、これで鈴木さんと加藤さんも辞めざるをえなくなったかな。
実は、今回の辞職でいちばん困ってるのは、自民党だったりして。





2002年03月26日(火)
2002年3月26日。

「殿下の料理番」(渡辺誠著・小学館文庫)より抜粋。

【お立場上、さまざまなご公務や各種パーティなどにお出ましになられます。たとえば立食形式のパーティなどの場合、その場では基本的に何も召し上がりません。(皇太子)殿下とお話をしたいという方が引きも切らずにいらっしゃって、そういう方々との会話が次々と続くからです。せっかくの機会にぜひお言葉を交わしたいという方の気持ちを尊重されて、できるだけ耳を傾けられてお話をなさいます。人と会話をなさりながら食べたり飲んだりということはされませんから、意識的に召し上がらないようにしているのではなく、結果として、何も召し上がらないことになってしまうのです。
 そこでわれわれは、お出かけ前にちょっとした軽食をご用意するとか、あるいはお帰りになってからお夜食をお出ししたりすることもありました。】

〜〜〜〜〜〜〜
東宮御所の主厨(料理人のトップ)であった著者の回想。
僕などは立食パーティというと、会費分くらいは食べないと、などと妙に気合が入ってしまうのですが、主役となると、なかなかそうもいかないようです。まあ、結婚式の主役があまり料理を食べられないのと同じようなものなんでしょうか(最近は、新郎新婦もしっかり食べる場合が多いようですが)。それにしても、次から次へと人に話しかけられるのも、公務とはいえ、けっこう辛いんじゃないかなあ。
一方、僕が食べまくってしまう背景には、話しかける相手もおらず、ひとりになるのを紛らわすという意味合いもあるのです。料理がなかったら、ぼーっと突っ立っているだけになってしまうかも。
結局、どっちも、それはそれで辛いということでしょうか。
それにしても、「今から立食パーティだから、何か先に食べておかないと」というのは、やっぱり矛盾してる感じはしますけどね。



2002年03月25日(月)
2002年3月25日。

日曜日のラジオ番組より。

2年間の遠距離恋愛の彼(同級生)がいるにもかかわらず、職場の人(3つ年上)ともつきあうことになってしまい、「どっちも好きで、選べない。私はどうしたらいいんでしょうか?」というリスナーの悩みに、番組のゲストだったYUKI(元JUDY AND MARY)が答えて。

「そんなの選べないんなら、今選ぶ必要ないじゃん。このまま2人とつきあっていくべきです。ずっと2人とつきあってれば、そのうち自然になんらかの結論が出るんだから。」

〜〜〜〜〜〜〜
なるほど。確かに世の中、期限を決めて選ばなければならないこってありますよね。たとえば、志望校をどこにするか、とか。今日の夕ご飯をどうするか。なんてこと。
でも、すべての選択を今すぐにしなくてもいいわけで。よく、宗教団体の信者勧誘の手段として、「入信して永遠の楽園に行くか、信じないで地獄の業火に焼かれるか」という2者択一をさせるというのがあるのですが、これなども、「入信もしないし、地獄になんか行かない」という、ごくごく常識的な選択肢が、さもないかのように思い込ませてしまうわけです。
で、どちらかを選ばなくてはいけない!と思い込んでいる相談者に、「今、選ばなくてもいいんじゃない、というか、ふたまた、という選択肢もあるよ。とYUKIさんは述べているんですね。
ちなみに、彼女は、「私も同じような経験をしてて、3年くらいどっちか選べなかった」と言ってました。男のほうも気付けよ、という感じですが。
確かに、いずれは結論が出ること、ではありますが、どっちの男にも愛想を尽かされないことを祈ります。

しかし、こういう相談って、実は本人は「そんな厳しい選択を迫られて、困ってる私」をアピールしたいだけだったりします。相談されて「二股はよくないよ」「不倫はよくないよ」なんて答えたら「そんなのわかってるわよ!」と一喝。なら相談するなよ、って感じ。
この「とりあえず結論が自然に出るまでこのまま続けてみたら」というのは、使えるなあ、ほんとに。



2002年03月24日(日)
2002年3月24日。

「アカデミー賞」(川本三郎著・中公新書)より抜粋。

【「ノーマ・レイ」(79年)に続き「プレイス・イン・ザ・ハート」(84年)で二度目の主演女優賞を受賞したサリー・フィールドのスピーチも心情がこもっていた。「私はきちんとしたキャリアのない女優です。だから人に尊敬されたかった。最初に受賞したときは、それを感じ取れなかった。でも、今回は違います」。そして彼女は目に涙を浮かべて言った。「ライト・ナウ、ユー・ライク・ミー!(今度こそほんとうに、みんな私のことが好きだってことがわかった!)」。
しかし、この「ユー・ライク・ミー」は彼女の自信過剰のあらわれと見られ、悪評を呼んだ。】

〜〜〜〜〜〜〜
もうすぐ、今年のアカデミー賞の発表ですね。授賞式を観ていて思うのは、外国の人は(まあ、彼らが芸能人であるからかもしれませんが)みんなスピーチなれしてるなあ、ということです。まあ、中には慣れすぎてて、演技論を長々とやって嫌われてしまう人なんかもいるようですが。
で、この「ユー・ライク・ミー」なんですが、逆に考えると、サリー・フィールドは、この2回目のオスカーを獲るまで、「自分は、ほんとにみんなに好かれているんだろうか?」という不安を抱えていたということですね。オスカーを最初に獲った時点でも、まだ信じられていない。
人気商売の辛いところといわれれば、それまでなのかもしれないけれど、こういう「ほんとは、嫌われているんじゃないか?」という不安って、誰の心の中にもあるはずで、たとえこの一瞬だけでも「ユー・ライク・ミー!」と言えた彼女は、幸せな女優であり、人間だと思います。

しかし、そんな彼女の心の声を「思い上がり」という外野もまた出てくるわけで。多くの人に愛されると、逆に妬まれたり、憎まれたりすることも多くなるんですね。愛されるのも、なかなか難しい。

それでも、僕も一度でも心からそう感じながら言ってみたい。
「ユー・ライク・ミー!」



2002年03月23日(土)
2002年3月23日。

西日本新聞の記事より。

【福岡】 絶滅が心配されているアカウミガメの上陸や産卵を監視して自然保護に目を光らせる全国初の津屋崎町の「うみがめ課」は、二十二日の同町議会で事務分掌条例の一部改正案として可決された。ただ、本会議質疑では、議員から「ウミガメ上陸は年々減少。上陸しなくなったら課の名前はどうするのか」などの異論が続出。阿部弘樹町長は環境行政の重要性を必死に強調。“難産”の末に新しい課の誕生となった。

 同議案を提出した段階で「全国の自治体で初めて」とあって、水産庁からも問い合わせがあるなど注目を集めた「うみがめ課」。ところが、議案は環境整備課の改称という内容で、議員からは「インパクトはあるが、町民は認知していない」「ごみ行政担当の課がどこか分からなくなる。環境整備課うみがめ係とすべきだ」など反対討論が噴出。

〜〜〜〜〜〜〜
「うみがめ課」っていう名前は、確かにインパクトありますね。要するに「環境整備課」を目立つ名前に変更したしたということのようですが。
それにしても、質疑に立った議員の「ウミガメが上陸しなくなったらどうするのか?」というのは、あまりに心配性というか、そうならないようにするのが、仕事なんじゃないの?と聞き返したくなりますね。

まあ、単なる名前の変更だけじゃなくて、仕事の中身でインパクトを与えてもらいものではあります。ゴミのことを相談しに行ったら、うちは「うみがめ課」ですから…なんて、たらいまわしにされたりして…




2002年03月22日(金)
2002年3月22日。

「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)より抜粋。

【世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。100人のうち52人が女性です。48人が男性です。

<中略>

まずあなたが愛してください。あなた自身と、人がこの村に生きてあるということを。

〜〜〜〜〜〜〜

あまりに有名になってしまった、「世界がもし100人の村だったら」。この本、統計学としては、なかなか面白いです。世界の現実、というのを知るためには、非常にわかりやすいテキストだなあ、と思います。
ですが、この結びの部分のところが、僕はどうもよく分からない。われわれはその日の食べ物に困っている100人のうちの20人にあてはまらず、車を所有している7人のうちの1人で、コンピューターを所有している100人のうちの2人である、という事実は、わかるんだけど。
「僕らは恵まれてるんだ、幸せなんだ(まあ、確かに物質的にはそうではあるのでしょう)だから、みんなを愛してあげようよ」ということ?
「衣食足りて、礼節を知る」という言葉もあるとおり、物質的な充足は、精神的な余裕を生む土壌ではあるのですが。
恵まれてるんだから、施しをしようよ、幸せを謳歌しようよ、という結論は、どうなのかなと思うのです。

う〜ん、突然、「東京の夜」から「君が好き」になってしまう
Mr.childrenの歌のような唐突な結論。

知識として、呑み会のときの話題のネタとしては、最適だと思うんだけど。じゃあ、「恵まれてない人たち」は、この話、どうとらえているんでしょうか?ああ、どうせ「文字も読めない」人や「メールもできない」人には、わかりませんから、ね。

ただ、この「インターネットの民話」が同時多発テロ後に急速に広まったという事実は、「自分たちは恵まれてるんだ」という自己暗示が必要となってしまったの人々の不安のあらわれなのかもしれませんね。

でも、「感慨」はあっても「感動」はしなかったです、僕は。








2002年03月21日(木)
2002年3月21日。

車のFMから流れてきた新人歌手のコメントより。

【この曲、こんど新しく進学する人や社会人になったひとでも、全然、共感できると思いますから。】

〜〜〜〜〜〜〜
いつごろから、全然、という言葉は肯定文にも使われるようになったんだろうか?でも、「ぜんぜん大丈夫だよ。」みたいな言い回しは、前からあったような気がするんですが。

全然(共感できないと皆さん思われるかもしれないけれど、そんなことなくて)共感できると思いますから。

という意味なんでしょうか。でも、括弧内が長すぎ。
やっぱり、全然のあとは否定形じゃないと、なんかしっくり来ないなあ。
ましてや、シンガーソングライターって、言葉を選ぶのも仕事のうちなんだからさ。

しかし、こうして耳に残るということは、プロモーションとしては正解?




2002年03月20日(水)
2002年3月20日。

村上春樹著「国境の南、太陽の西」(講談社文庫)より抜粋。

「幾つかのことに気をつければそれでいいんだよ。まず女に家を世話しちゃいけない。これは命取りだ。それから何があっても午前2時までには家に帰れ。午前2時が疑われない限界点だ。もうひとつ、友達を浮気の口実に使うな。浮気はばれるかもしれない。それはそれで仕方ない。でも友達までなくすことはない」

幼馴染の女の子に魅かれている主人公に、妻の父親が、浮気の作法(?)についてアドバイスした言葉。

〜〜〜〜〜〜〜
まあ、この小説自体については、男である僕の目からみても、ずいぶん男に都合のいい話だなあ、と思いながら読んだ記憶があるのですが。
ただ、この件については、家のこと、時間のことはまあ、経験則なんでしょうから、そうなんですかとしか、いえないところ。ただ、最後の「友達までなくすことはない」というのは、なるほど、と思われます。確かに、友達までなくすことはない。彼女は一度には、まず一人でしょうけど、友達は一生ものではありますし、たくさんいても、あんまり困ることはない。
ただ、ひとつのことに夢中になると、まわりが見えなくなってしまうことが多かったりするわけですね。嘘に嘘を重ねて、すべてを失ってしまいがち。
「恋は盲目」とはいうけれど、恋愛のことと友情、仕事はちゃんと別のこととして捉えておけ、ということなんでしょうか。失わなくてもいい友達まで、失うことはない。

しかし、世の中には、友達以外の口実をつくるのが、難しい職場、立場の男も多いと思われます。そういう人は、どうすればいいんでしょうね。

そうか、浮気しなきゃいいんですな。



2002年03月19日(火)
2002年3月19日。

中島らも「愛をひっかけるための釘」(集英社文庫)より抜粋。

【ものを書く人間は、たとえ缶詰めにされたからといって、じっと机に向かっていれば書けるというものではない。その証拠に筒井康隆氏をホテルに缶詰めにして、夜中に様子を見にいったら、氏はホテルの「風呂を洗って」いたという。その気持ちはよくわかる。何か単純な作業に専心したくなるのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜
人間、煮詰まったときって、ほんとに傍からみるとわけがわからないようなことを無性にやりたくなるときってないですか?僕も大学時代の試験の前日、「気分転換に1巻だけ」と思って読み始めた「北斗の拳・愛蔵版」を結局、朝までかかって読み終えた記憶があります。読んでると、これを読み終えないと、勉強できないっ、という気持ちになってくるんですよね、不思議なもんです。実際は、全然関係ないんだけどさ。で、読み終えて、満足して就寝、と。
試験の結果は、いわずもがな、ですね。

しかし、この場合の筒井さんは、まさに「缶詰め」にされて、「書くしかない」という状況だったわけですね、少なくとも編集者にとっては。でも、人間煮詰まっちゃうと、こんな逃避の方法までやるようになるのか、と感動してしまいました。
でも、これを読んでしまうと、僕も今度「風呂を洗って」しまうかも。
そのくらいなら、せめて部屋片付けたら、って声が聞こえてきそうですが。

それにしても、このとき、編集者はさぞかし唖然としたことでしょうね…





2002年03月18日(月)
2002年3月18日。

村上龍「eメールの達人になる」(集英社新書)より抜粋。

【エクスクラメーションマーク「!」も、()と同じで、可能ならば使わない方がいい。
「本当にありがとうございます!」
10、20代の女の子だったらかわいいかもしれない。だがひんぱんに使わないほうがいい。わたしは、小説やエッセイでもめったに使うことはない。】

〜〜〜〜〜〜〜
ちょっとドキッとします。僕は、30歳男性ですから、もちろん顔文字なんかは使いません。読む側からすると、顔文字だらけのメールをいただくと、それだけで、自分ひとりで盛り上がっている相手の姿をイメージして、引いてしまいます。たとえば、コンサート会場でオープニングの一曲目から踊り狂っているひとを観るような気分。
まあ、ひとつやふたつなら、別にどうってことはないのですが。
この人、顔文字を書きたいからメール書いてるんじゃないか?って思う人、たまにいませんか?

それにしても「!」というのは、意外な盲点、ですね。
確かに、こうして他人が書いたものをみてみると
「ありがとうございます!」の「!」って、蛇足というか、かえって嘘っぽい印象を与えるような気がします。
ほんとに喜んでるんだったら、「!」じゃなくて文脈でわかってもらえればいいんでしょうし、それが文章力のみせどころなんだろうけれど。
「!」ばっかりの文章って、書き手がズイズイとにじり寄ってくるような感じがして、思わずよけたくなってしまいます。
まあ、親しい人に対しては問題にならないところなんでしょうが、
僕も自分のサイトで文章を書くときには気をつけようと思います!

って、やっぱり、なんとなくわざとらしい感じがしませんか?

あっ、ひょっとして、この「?」もですか。




2002年03月17日(日)
2002年3月17日。

[ロンドン 16日 ロイター] インターネット上で知り合った男女は、恋愛関係に発展する可能性が高いという調査結果が発表された。
 英バース大学の心理学者ジェフリー・ギャビン氏によると、インターネットで知り合った男女は事前にお互いの情報をやり取りしているため、実際に会った時に関係を発展させやすい傾向にある。
 同氏はチャットに参加することで自分の本心を、より自由に表現することができると指摘。
 調査はチャットを常用している19―26歳の42人を対象にインタビューを実施。ネットで知り合った親しい友人、恋人がいるとの回答は29に達し、21がこれから実際に会う方向に進んでいると答えた。また、婚約したというカップルも1組あった。(ロイター)

〜〜〜〜〜〜〜
これを読んで、やっぱりインターネットは、最高の出会いの場なんだ!と思うのは、あまりに短絡的かと。この統計自体、対象が「チャットを常用している」といういわゆる「インターネット好き」の男女という偏りがあり、しかも42人という、統計学的にはあまりに心もとない数字に基づくものでありますし。

それに、この結果自体も、たとえばテニスサークルや英会話教室というカテゴリーで考えても、そんなに変わらない結果が出るんじゃないかと思いますが、いかがでしょう?

僕は、自分にあった条件の人を簡単にみつけられるということやより多くの人と知り合う機会があるという、インターネットの出会いの優位性は認めます。でも、それが運命の出会いとかいう発想は、どうかなあ、と思うのです。「顔が見えないから、本音で話せる」という考え方の一方で「顔が見えないから、平気で嘘をつける」というふうに考えてるひともたくさんいるはずだから。

まあ、「チャット」が趣味の人のサークルが知り合うきっかけになって、あとは、普通の恋愛ということだと思いますけどね。
何年、何十年かして、「運命の出会いをした」ネット恋愛の夫婦の離婚率の統計をとってみたら、面白いかもしれない。
それにしても、自然科学をやっている人間からすると、こんなアバウトな「統計」が新聞にまで載ってしまうというのは、奇奇怪怪。



2002年03月16日(土)
2002年3月16日。

椎名誠「犬の系譜」(講談社文庫)のあとがきより抜粋。

氷点下50℃くらいのシベリアではライカ犬が前肢を交互に上げ下げしているのを見た。おそらく足の裏があまりにもつめたいので、そうやってしのいでいたのだろう。
 熱いところでも寒いところでも犬たちはたくましく生きているのだな、とあちこち旅行するたびに感心する。そして日本は犬たちにとってまことにしあわせな気候風土だけれど、しかし日本の犬はむしろかなしいな、と思うことがある。
 それは世界のいろんな国にいる動物の大多数は勝手に自由に歩き回っているのに、日本の犬だけ中世の囚人のように四六時中鎖につながれている、ということを知ったからだ。
 鎖につながれた犬を見るのは、なんだかしみじみかなしい。

〜〜〜〜〜〜〜
 犬って、ほんとに昔からの人間の友達なんですよね。犬に「人格」を求めてしまうのは、人間のわがままなんでしょうけど。
僕も、子供のころは、庭先につながれている犬をみては、「こいつは何考えてるんだろうなあ…」と疑問に思っていたのです。自分の家でも犬を飼うようになって思うのは、彼らは本当に家族の一員だということなんですよね。
家に不幸があれば、哀しい顔をしているし、相手にしてくれないと「かまって〜」とじゃれてくる。一時期、実家に帰るのは、うちの犬の歓迎を受けるためだけ、という時期もあったくらいで。

 でも、つながれている犬を見るのもかなしいけれど、あまりにネコかわいがりされている犬を見るのもなんだかなあ、と思います。服とか着せられてるのも、しみじみかなしい。正直、犬にとってはじゃまくさいだけだと思うのですが。もちろん、日本の居住環境がいちばんの問題なんでしょうけど、実は、くさりで繋ぐのは、浮気をしてほしくないという人間の不安のあらわれなのかもしれないなあ。

 「南極物語」、僕は子供の頃宣伝の「どうして、犬たちを見殺しにしたんですか!!」〜わんわんわん、「タロ!ジロ!」というところしか記憶になかったので、ようやく記憶の糸がつながった気分です。
 亡くなった犬たちはかわいそうだけれど、彼らは、ほんとに人間のパートナーだった思うと、それもひとつの生き方なのかな、と。
共依存の対象となるより、幸せなのかもしれない。
でも、この「犬か機材か?」って話、感動的なタロとジロの生還がなければ、きっとこんなに世に広まることもなかったんでしょうね。
ただ、犬が犠牲になった、というだけのこととして。



2002年03月15日(金)
2002年3月15日。

「悔しい。勝ち負けではないが、少年に負けた気がする」。光市の母子殺害事件で妻弥生さん(当時23歳)と長女夕夏ちゃん(同11カ月)を殺され、当時少年だった被告(20)の極刑を訴え続けた本村洋さん(25)は記者会見でしばらく押し黙った後、涙をこらえてそう語った。【坂口裕彦、田原和宏】(毎日新聞の記事より)

以下、ホームページ「死刑制度の廃止に向けて」より一部抜粋。

死刑を存置すべきとする主張のなかで、もっとも根本的な理由となるのは、この被害者(ここでは殺人犯罪の被害者の遺族らを含む概念として被害者ということにします)の感情の慰謝の手段としてということがいえるでしょう。いわゆる正義の要請や法的確信を死刑制度の存立理由に挙げる立論も、その根本に被害者感情が契機となっていると考えられます。廃止論の立場からは、この論点は論理による説明がもっとも難しいものといえます。
凶悪事件の被害者の心情を慮れば、それが加害者に対する極刑の要求となってあらわれるのは、まったく説明が不要なほどに自明なことです。よって、このテーマを論じるにあたっては、この被害者の慰謝という目的をもってしても死刑制度存置の理由になり得ないという主張をする側に、より積極的な理由付けが望まれます。

廃止論の側からは、まず、国家刑罰権の行使にあたり、具体的な被害者の応報感情を反映させるべきではない、という主張が考えられます。それほど極端ではなく、ある程度、被害者感情に理解を示しながらも、誤判の危険など死刑制度における他の欠陥の重大性を考慮すると、刑罰の選択の上から無視するのはやむを得ない、という消極的な結論に達する見解もあります。

次に、より積極的に被害者感情を死刑制度存置の理由とすべきではないとするものとして、以下のものが考えられます。1つは、そもそも被害者の感情は、決して応報という安易な方法で慰謝されうるものではなく、むしろ葛藤の末に人間として犯人の罪を赦すことによってしか真の心の平安は得られないのではないかとするものです。もう1つは、被害者の憎しみの感情は犯人のみに向けられているが、犯罪の責任は唯一犯人にのみ帰せられるものではなく犯人を犯罪に導いた社会環境にも求められるべきであり、犯人の処刑をもって絶対的な被害者慰謝の手段とするのは、被害者の錯覚を利用した表面的な解決にすぎないというものです。

また、傍論として、犯罪被害者救済システムの貧困が被害者の不満を犯人の処刑要求に集中させるという点を指摘し、犯人の命を奪うという究極の手段を選ぶ前に、被害者に対するより厚い経済的・精神的な社会的ケアを講じるべきだという主張もなされています。このような弱者に対する福祉の貧困が、そもそもの犯罪を招いた原因ともなったという意見もあります。

〜〜〜〜〜〜〜
非常に長い引用ですみません。
1月10日の「活字中毒。」で書いたように、僕は死刑制度が必要不可欠だと考えています。今回の判決に対しては、ただただ、本村さんの無念を察するのみです。彼は、まだ25歳。犯人の性欲を満たすためだけの犯罪の被害を受けて、ほんとに人生を棒に振らされているのです。
で、裁判長は「更生の可能性がないとはいえない」とか寝ぼけたことをのたまって、犯人を実質的には出てこられる「無期懲役」にしてしまうわけですね。で、「また出られるさ」とか知人への手紙に書いている。
もう、この犯人は狂ってるんでしょうね、きっと。

さて、上に長々と引用させていただいたのは、アムネスティの人権保護活動の一環として掲げられている「死刑廃止推進」のホームページのQ&Aの一部です。非常に、理論的に語られています。

僕の反論。
(1)「誤審の可能性がある」のなら、疑わしいものについては、死刑にしなければいい。今回のように、犯人が自白し、はっきりしている場合にまで、そういうことを言い出すのはいかがなものか。そんなことを言い出すなら、すべての裁判には誤審の可能性があり、裁判なんてできるわけがない。

(2)「そもそも被害者の感情は、決して応報という安易な方法で慰謝されうるものではなく、むしろ葛藤の末に人間として犯人の罪を赦すことによってしか真の心の平安は得られないのではないかとするものです。」

悪いが、笑わせていただきます。「心の平安」ってなんですか?そんな宗教的なところで「赦す」なんて感情に頼るのは、信じがたい。
被害者が、「自分は身内を殺した犯人すら赦せる、心の広い人間だ。」と自己満足して、それで終わり?それが出来ない遺族は、人間として劣っているのでしょうか?真の心の平安なんて、得られる人間が世の中にいるんでしょうか?

(3)「もう1つは、被害者の憎しみの感情は犯人のみに向けられているが、犯罪の責任は唯一犯人にのみ帰せられるものではなく犯人を犯罪に導いた社会環境にも求められるべきであり、犯人の処刑をもって絶対的な被害者慰謝の手段とするのは、被害者の錯覚を利用した表面的な解決にすぎないというものです。」

 こういうことを言う人は、きっと「自分は頭がよくて、死刑制度という問題についても、客観的な社会学的な視点からみてるんだぞ」と自慢したいんでしょうね、きっと。
すべて、社会が悪い。じゃあ、その社会環境とやらは、いつになったらよくなって、犯罪のない平和な社会ができるんですかね。
今回の事件のように、明らかに異常な人物が起こした犯罪についても、「社会が悪い 」とほんとに思えるひとがいるとしたら、それは、よっぽど感情移入の力が欠けている人なのでしょう。

(4)「傍論として、犯罪被害者救済システムの貧困が被害者の不満を犯人の処刑要求に集中させるという点を指摘し、犯人の命を奪うという究極の手段を選ぶ前に、被害者に対するより厚い経済的・精神的な社会的ケアを講じるべきだという主張もなされています。」
 
 ああ、そうですね。確かに、洗脳したり、被害者年金を年に10億くらいもらえれば、被害者感情も癒されることでしょうよ。


今、こうしている間にも、本村さんの妻と娘を自分の欲望のために殺害した犯人は、のうのうと呼吸をして、たとえそれが留置場でも食事をして、いろんなことを考えることができるのです。
そのこと自体が、被害者は赦せないのだと思う。
どうして、殺された側は何もできなくて、殺した側は「生きていく」ことができて、仮にそれが反省の気持ちであったとしても、人間として考えていくことができるのか、と。死んだ人間は、考えることすらできない。
「罪なんて、償ってほしくないから、さっさと死ね!」
僕が家族なら、間違いなくそう思います。

論理云々より、せめてもの被害者感情の慰撫。その一点だけで、僕は死刑制度は妥当だと考えています。
どうして無期懲役じゃいけないかって?
他人の未来を奪った人間は、更生や反省の機会が与えられ、奪われた側には考える機会すら永遠に奪われてしまう、それって、不公正だと思いませんか?

僕は、なんでもかんでも死刑にしろ、と言ってるわけではないですよ。
ただ、それに値する犯罪者は、確実に存在すると思っているのです。
でも、あまりに偏った考えの「人権主義者」たちが、自己主張、自己表現の手段として「死刑廃止」を訴えているのには、耐えられない。

「死刑は殺人だ」当たり前だ。だからこそ、殺された側にとっては、せめてもの慰めになるのです。
擁護する前に、その犯人が何をやったのか、よく考えてみませんか?

「どうして、人間が人間を裁けるのか?」
人間を裁けるのは、人間しかいないはずです。それが、社会というもの。

最後に、ひとつだけ。
死刑執行人の苦悩は、わからなくもない。
でも、彼らは強制されてやってるわけではないし、それで給料をもらっているのですよ。プロなら、黙って自分の仕事をやってしかるべき。

あと、死刑反対運動のルポライターの皆さんは、ドラマをつくって、それで給料もらったり、名をあげようとしている人たちです。
そんな作り上げられた感動を提供する報道を鵜呑みにするのはいかがかと。










2002年03月14日(木)
2002年3月14日。

中島らも「愛をひっかけるための釘」(集英社文庫)より抜粋。

 僕は今、三十六歳になるが、恋愛に限らずとも、人との新しい出会いはなるべく避けたい。そんな気持ちが徐々に濃くなっていきつつある。年若いうちは、対人恐怖症気味であったにもかかわらず、それを乗り越えてでも新しい出会いを求める気持ちが強かった。しかし、現実に何人もの近しい人を病気や事故や自殺で失っていくと、「出会い」に対してポジティブな感情を持つことができにくくなってくる。「会うは別れの始めなり」ということが、ものの道理そしてではなく、自分の感情や痛みの感覚においてわかってくるからだ。
 「失う側」としての痛覚がわかってくると、今度は逆に「失われる側」としての自分の存在についても考え始める。その結果、”生きているうちに、あまり人から愛されるような存在であってはいけない”のではないか、と妙なことを最近考えてしまう。

〜〜〜〜〜〜〜
僕は今、30歳。この文章に書いてあることが、なんとなく実感できるようになった気がするのです。確かに、外に出て行って、人脈を広げることの大事さもわかってはいるつもりなのだけれど。
この場合の「出会い」は仕事づきあいではなくて、ある程度心を開いてつきあえる友人、恋人と考えていいと思われますが、正直、新しい友達を作ろうとかいう積極的な気持ちが、最近薄れてきています。
もともとめんどくさがりでもあり、人見知りもするほうではあるのですが…
時間的に、これ以上知り合いが増えても、自分の中で消化しきれないと感じる部分もあるし(時間=付き合いの深さ、ではないが)。

 生きていて、楽しいことより辛いことのほうが多いと感じるようになったのは、いつごろからだったろうか?

 得ることの喜びよりも、失うことの怖さのほうが大きくなったのは、いつごろからだっただろうか?

 これは、自分が失われていくことへの準備なのかもしれませんね。
ただ、僕自身は、なるべく人に愛されて生きていきたいと思ってはいるのです。なぜかというと、忘れられてしまうのは寂しいから。そして、他人の記憶を抱えて生きていくのが人間ならば、他人にとってのなるべく甘美な記憶でありたい、そう考えているからです。

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3000カウントに寄せて。

「活字中毒。」を書いているふじぽんです。
この拙い文章にもかかわらず、毎日たくさんの方々にお越しいただいて、
なんとお礼を申し上げてよいかわからないくらいです。
ホームページの「刺身のツマ」のような気持ちで書き始めた「活字中毒。」に望外の支持をいただいていること、他人事のような気持ちでやや驚きつつ眺めています。「テキスト風聞帳」などでも取り上げていただくことも多くて。本来、おひとりずつに感謝の念を申し上げるべきところなのでしょうが、僕の不精と生来の引っ込み思案から、ご無礼いたしております。すみません。

 僕自身は、ほんとにごくごく普通の人間です。仕事をし、食事をし、眠り、ネットサーフィンをしているだけの人間です。
でも、こういうふうに文章を書いて、読者の方にメールや掲示板で感想を聞かせていただいたりすることは、僕の生活に潤いを与えてくれています。
なんとなく人間が苦手ながら、やっぱり人間から離れられない自分。

そして、たぶんこうやって文章を書くことによって、自分自身を癒しているんだと思います。口には出せない、出すことが恥ずかしいけど、誰かに聞いてもらいたい心の声。

だらだらと長い文章になってしまいました。
なんだか「あとがき」みたいですね。
「活字中毒。」は、まだまだ続きます。
状況によっては、毎日更新ができなくなったりはするかもしれないけれど。
今後も、ご愛読いただければ(で、たまに投票ボタンとか押していただいちゃたりすると)たいへんありがたいです。

すみません、でしゃばりで。
明日の分からは、普通の「活字中毒。」です。

                        









 





2002年03月13日(水)
2002年3月13日。

【シティ情報ふくおか No.561 「ラ・マンチャの男」松たか子インタビューより抜粋】

松本幸四郎が演じる主人公、ドン・キホーテが永遠の憧れの人として遇する、あばずれ女、アルドンサを演じることについての質問に対して。

松たか子「幼いころに父(松本幸四郎)の舞台を観ていた時には、彼女がレイプされるシーンになるとロビーに連れて行かれたりして(笑)怖いイメージがあったんです。でも怖い中にも妙にそのシーンが綺麗に見えたりして。今回、自分が演じるということに不思議なめぐり合わせを感じますけど、迫力で見せていくというよりは、よりリアルにそこに居る感じを大切にして自然に演じていけたらと思います。」

〜〜〜〜〜〜〜
役者であり父でもある、松本幸四郎の舞台を幼い娘はこんなふうに観てたんですね。でも、レイプシーンの前に、そっと娘をロビーに連れ出すお母さんの様子を想像すると笑ってしまいます。
「ほらほら、ここはちょっと…子供が観るところじゃないから!」
「なんで???」なんて。
子供に父親の舞台をみせてあげようという気持ちと、ちょっとこれは教育上よろしくないよなあ、という気持ち。で、娘はそういうところをけっこう冷静に見ていた、と。
大きくなって、彼女は、「こういうことだったのか…」と気づいたんでしょうね。役者の親娘の関係、微笑ましい感じ。

「ラ・マンチャの男」の初演は1969年。幸四郎さんは33年間、ドン・キホーテを演じ続けているそうなのですが、まさか娘に見せられなかった「教育上よろしくないシーン」を娘と演じることになろうとは。

幸四郎さんの奥さんの心境も、ちょっと聞いてみたい気がしますね。




2002年03月12日(火)
2002年3月12日。

ある昼下がりのFMの番組での言葉。

「私、お化粧とかするの大好きで、お化粧とかファッションで変われるのが女の特権だと思ってるんです。恋人に『スッピンの方がいい』なんて言われたりしたら、あなたのためにこんなに綺麗になろうと頑張ってるのに!と腹が立っちゃう。『そうやって綺麗にしてるキミが好きだよ…』っていってもらいたいんです。」

〜〜〜〜〜〜〜
ちなみに、発言者は加藤いずみさん。
一昔近く前に「好きになってよかった」っていう歌がヒットしてた人。
そういえば、一時期「オールナイトニッポン」でもDJやってました。
最近、松任谷由実さんのコンサートでコーラスをやってたそうです。

しかし、なかなかオトコとしては考えさせられる言葉、ですね。目からウロコが落ちた、と言いますか。僕の中では「スッピンのほうが…」ていうのは、最高ランクの褒め言葉だと認識して30年間生きてきたんだけど(まあ、色気づいてから、だともうちょっと短くなりますが)。素顔のままのキミが好き、ってダメ?
世の中には、こういう風に考える女性もいる、というか、実際は、こういう女性のほうが多いのかもしれませんね。今度から気をつけようと思います。
褒め方や愛情表現っていうのは、相手によって受け取り方も違うし、なかなか難しいものですね。

加藤さんの発言についての付記。
「もちろん、スッピン(も)いいって言ってくれるのは、いいんですよ。
でも、スッピンが一番っていうのは、イヤだなあ」だそうです。

どっちもいいよ、というのが、いちばん無難なところ、なのかな。




2002年03月11日(月)
2002年3月11日。

「Yahooニュース」より抜粋。

鈴木衆院議員が11日の証人喚問の中で、社民党の辻元清美政審会長(41)の追及に激高し、声を張り上げて反論した。

 辻元氏は鈴木氏の関与が指摘されているケニアのソンドゥ・ミリウ水力発電事業について、鈴木氏を追及した。「99年のケニア訪問で初めて名前を知った」と証言した鈴木氏に、辻元氏は「99年以前に3回ケニアを訪問し、大統領にも会っている。99年以前に話が出たはず」と詰め寄り、鈴木氏が事業内容を知っていたはずと指摘した。

 さらに「あなたのお母さんは私と同じキヨミさんと承っております。お母さんに答えるように正直に、包み隠さずお答えください」「何が『忘れた』ですか。ど忘れ禁止法を適用したいくらいだ」と挑発しつつ質問を展開。鈴木氏の顔は次第にこわばり始め「覚えていない」「はっきりしない」と繰り返した。

 辻元氏が「どうしてうそをつくのか。あなたは『疑惑のデパート』と言われているが『疑惑の総合商社』だ!」と鈴木氏を指さして攻撃した瞬間、鈴木氏がキレた。

 「うそつきという発言は撤回してもらいたい!」と激高。しかし、辻元氏は引かず「答弁をごまかしている。自分がかかわったことが分かるとやばいことがあるから、否定せざるを得ないことが明らかになった」と述べて質問を終了した。この時点で喚問の時間は終わった。

〜〜〜〜〜〜〜
 こういうのが、ディベートのテクニックなんでしょうか?
だとしたら、なんだかどうしようもないなあ、という気がします。
確かに、鈴木宗男氏は、「ウソツキ」かもしれないし、かなり悪いことをしてそうな雰囲気。
 でも、ひどすぎませんか、辻元さんという人は。だいたい「お母さんがキヨミさんだからといって、なんであんたにそんなことを言われなければならないの?」ってそりゃ、鈴木宗男氏じゃなくても思いますよ。この人が自分のお母さんだったら厭だなあ、と心底感じましたよ、僕は。
鈴木さんは、けっこう悪いことをやっているようですが、お母さんは多分彼のことを信じてると思います。親って、そういうものであってもらいたい。
まだ、立てこもり犯に「おまえのお母さんは泣いているぞ!」っていうほうが理解できるような気はします。

 そういえば、大橋巨泉氏が議員をやめたときの記者会見中に、わざとらしくカメラの前に登場して「一緒にやりましょうよ〜」と泣き落としていたのもゾッとするものがありました。巨泉もいいかげんな人だなあ…と思っていたけれど、こんな奴らにかかわってたら、辞めたくなるのも至極当然と逆に納得。

 怒らせるのはたぶん、ひとつのテクニックなんでしょう。それはそれでわからなくもない。観てる僕まで腹立ったくらいだから。でも、僕は辻元さんが大嫌いです。目立ちたいだけで生徒会に立候補するクラスのリーダーを勝手に自覚してる人みたい。

「お母さんには包み隠さず何でも話す」と本気で思っているとしたら、親としての資質も決定的に欠落してる。彼女自身は、そういう子供だったんでしょうか?

 あの、僕は鈴木宗男さんを応援しているわけではないので、念のため。
ただ、こういう品位と理性と常識に欠けるような証人喚問に、うんざりしてしまっただけです。
 





2002年03月10日(日)
2002年3月10日。

「中国古典百言百話11・史記」(西野広祥著・PHP文庫)より抜粋。

 いま魚を受けて免ぜられなば、たれかまたわれに魚を給せん者ぞ。われ、故に受けず。(循吏列伝)

 法に厳格なことで有名だった、魯(中国の春秋時代の一国家)の宰相の公儀休が魚をみやげに持ってきたものに対して言った言葉。

「なぜでしょうか?魚がお好きと聞いたのですが」
「好きだからこそです。わたしは今、宰相をしています。魚を買おうと思えば簡単に手に入ります。ですが、もし、魚をいただいたことがもとになって辞職にでも追いこまれたら、それこそ、魚は手に入らなくなります。ですから、この魚をいただくわけにはいかないのです」

〜〜〜〜〜〜〜
なぜ、賄賂はいけないのか?実際にもらう側の立場からしてみたら、その理由をこれほど明確に述べた言葉はないんじゃないでしょうか?賄賂を渡す側も相手を尊敬して、大事にしているから渡すわけではないのですから。
プライドより、職業意識より、結局、自分にとってメリットにならないからという考え方は、むしろ現代人にとっては、より受け入れやすいものなのではないでしょうか。
それとも、今の役人は「魚も自分で買えない」ほどに生活に困窮しているんでしょうか?

かの鈴木宗男氏が証人喚問されているわけですが、僕の中では、彼のイメージは「プチ田中角栄」なのです。味方にはとことん甘く、敵には容赦ないところ、怖いくらいの上昇志向。役人ウケがいいところ。

だから、どうして田中真紀子さんが鈴木さんのことを嫌いなのか、よくわかんないんですよね。真似しやがって!とか思ってるのかな。
まあ、スケールという点では、鈴木さんのほうがやや劣っているような感じですが。かかわった事業の大きさにしても、賄賂の額にしても。

誰でもわかっているはずのことなのに、感覚が麻痺してしまう。そして、鈴木さんの陰には、彼からまた餌をもらっている「プチ鈴木宗男」たちが…
偉くなるというのは、それはそれで大変なことですね。
小魚たちを食べさせないといけない。
彼から餌をもらっていた人々が、いずれまた…?
歴史は繰り返す、のでしょうか?







2002年03月09日(土)
2002年3月9日。

「と学会年鑑2002」(と学会著・太田出版)の序文「2001年を超えて」より抜粋。

 僕が子供の頃、「2001年」という年号には魔法のような響きがあった。それは遠い未来であり、そこにたどり着くまでに自分が歩み続けなくてはならない年月の厚みというものを考えると、気が遠くなるような感覚を覚えたものだ。ところが、その2001年があっさりと過ぎてしまった。
「えっ?もう終わっちゃったの、2001年?」そんな落胆とも失望ともつかない奇妙な感覚。子供の頃に思い描いたイメージとの大きすぎる落差がもたらす違和感ーたぶん僕と同世代の人なら、分かっていただけると思う。
(注:筆者は「と学会」会長、山本弘氏。40代)

〜〜〜〜〜〜〜
 僕としては、子供の頃から「ノストラダムスの大予言」で「1999年に人類は滅亡する!」というのを半ば信じていたので、生きて21世紀、そして30代を迎えられるとは思っていませんでした。
「2001年」なんて、夏休みに宇宙旅行に行けて、一部の人類は宇宙ステーションで生活しているというようなイメージを持ってたんですけどね。ガンダムの世界のように。(もし、人類が滅亡していなければ)。
「2001年宇宙の旅」っていうのは、そういったイメージのひとつの結晶だったんですよね。
でも、現実には、まだコンピューターは自我を持つにはいたってないし、その一方で人間は自我を失いつつある。
まあ、始まったばかりの21世紀、実際は、「もう終わっちゃったの?」っていうような年のほうが、後から考えると「いい年」なのかもしれないですね。
2001年は「同時多発テロの年」になってしまったけれど。



2002年03月08日(金)
2002年3月8日。

サイトでーた4月号(角川書店)より。

「休刊のお知らせ」
突然ではありますが、今号をもちまして、一時休刊とさせていただきます。
2000年6月の創刊以来、短い間でしたが、御愛読いただきました読者の皆さまに、心より御礼申し上げます。
本格的なブロードバンド時代の到来にそなえ、新しい雑誌に生まれ変わるための措置とご理解いただけますと幸いです。

〜〜〜〜〜〜〜
インターネット情報誌の乱立は、黎明期のファミコンゲーム情報誌をみているようだった。そして、その淘汰の過程も似ているような感じ。パソコン関係の雑誌は、現在も本当にたくさん出ていて、書店で目移りすることが多い。でも、書いてあることはみんな一緒だったりするわけですね、これが。
とくに名は上げませんが、ちょっと前のインターネット情報誌は「プロバイダー選択」がメイン。やたらと分厚い雑誌のうち、実はほとんどが広告で、なんだかなあ、と思うことが多かったです。実際、プロバイダー、どうしようかなあ…と思っている人には、役に立ったのかもしれないけれど。
ちなみに、現在はネコも杓子もADSL。正直、読むほうも食傷気味。
まだISDNの僕でさえそうなんだから、実際にもうADSLにしてしまった人にとっては、なおさら「もういいよ…」という感じでしょう、きっと。
毎月毎月、同じような内容の記事しか載ってないし。
あとの内容は、新機種情報。そんなにしょっちゅうパソコン買い換えられないって。まあ、カタログ的にみる分には、けっこう楽しかったりするわけですが。
アクセス向上系のホームページからの受け売りなのですが、実際、雑誌で紹介されるということは、あまりサイトのアクセス向上にはつながらないようなのです、現在では。
きっと、出版社が出したいもの(広告がとれるもの、と言い換えてもいいかな)と読者が読みたいものは、ものすごくかけ離れているのが実情。
僕が最近もっとも興味を引かれた記事は、「ネットランナー」の「3日で大人気テキストサイトができる!」だったんです。結論は、僕にはこれは不可能だ…でしたが。

スポーツ情報誌から「Number」が生まれ、ゲーム情報誌で「ファミ通」が頭ひとつ抜け出たように、ある程度文化として成熟してきたら「情報」よりも「情緒」を伝えることが必要となってくるのかもしれません。
情報のスピードでは、どんなにがんばっても雑誌はネットの速度にはかなわないんだから。
これから、さらに淘汰が続きそうですね、インターネット情報誌。



2002年03月07日(木)
2002年3月7日。

日刊スポーツの記事より。

代理出産を決断した向井亜紀(37)が、その思いを語った。

 ◆向井亜紀一問一答(一部抜粋:筆者)

 −−あえて告白に踏み切った理由は

 向井 私は今年芸能生活20周年、高田もレスラー生活20年。それだけの間、みなさんの前で仕事してきて、それなりに顔も名前もおぼえてもらって、しかもあの時、あんな会見までして。もうバレバレじゃないですか? これから何をやっても、こそこそ言われるだろうし、生まれる子供もいじめられるかも。だからすべて公明正大にいこうと決めたんです。

 −−代理出産に抵抗は

 向井 全然! 私が小4の時、誕生日に父が顕微鏡を買ってくれたんです。それで、生物に興味がわいて、大学でも生物農芸学なんて勉強して。そして、ものすごくいい遺伝子を持っている人と結婚し、子づくりの苦労を味わって…。今考えると、すべては、今回のためだったのかもしれませんね。

〜〜〜〜〜〜〜
世の中には、「告白」する人たちがいる。
逸見さんの癌告白会見は、衝撃的なものだった。
向井さんの子宮ガン告白会見も、無念さが伝わってくるものであったと思う。
それはさておき。人は何故「告白」するのか?
癌の告白会見の場合は、なんとなくわかる。仕事をキャンセルしてしまうことへのケジメ、他人に話すことによって、たとえば同じ病気の患者さんたちに勇気を与えたり、やっぱり誰かに応援してもらいたいという気持ちもあるのだろうと思う。

でも、「代理出産」というのは、はたして「告白」するべきことなのかどうか?ちょっと不自然な感じもするのです。
僕は「代理出産」に対しては、正直、正しいかどうかは、よくわからない。
でも、それが「不自然」だというのなら、すべての不妊治療は不自然だと思うので、やりたい夫婦とお腹を提供する人がいれば、まあいいんじゃないかなあ、とは思います。
ただ、この代理出産、3000万〜5000万ほど、総費用がかかるそうです。それこそ、「いい遺伝子」を持ってるひとじゃないと、ちょっと厳しい。向井さんは、そんな「遺伝子」なんて選民思想チックな言い方をしないで「彼の子供がどうしても欲しいんです!」といったほうが、みんなに受け入れやすいのではないかなあ、と僕は思います。
彼女の不運はわかる、でも、世の中には代理母出産さえいろんな理由で出来ない人だっているんだから。
ことさらに、「告白」して「オープンに」やっていく必要があるんでしょうか?むしろ、プライベートなことなのだから、好きにやればいいと思うのだけれど。

それにしても、世の中には「貧乏だってがんばるぞ!大家族スペシャル」といったような家族計画の欠落が貧乏の主因となっている家族もいるのだから、人間というのは不公平なものですね…




2002年03月06日(水)
2002年3月6日。

荒川洋治「日記をつける」(岩波アクティブ新書)より抜粋。

日記は、なんのためにつけるのだろう。まずそれは自分の記録のためである。またその記録をあとから振り返るためである。

(中略)

ひとつ付け加えるなら、日記は基本的には自分のことをつけるのだから「私のことは、私がいちばんよく知っている」という気持ちでつけられていくものである。自分だけが知っていること、気づいていること。それらがおおいばりで活躍する。それが日記だ。その「私」はそれほどりっぱなものでなくてもいい。どんな「私」でも、「私」がいれば日記は成り立つ。一個の「私」をこのもやもやした世界のなかから、もやもやした自分のなかから取り出していくためにも日記は欠かせないものだと思う。

〜〜〜〜〜〜〜
この内容が、果たして「公開されること」を前提としているWEB日記にも当てはまるかどうかは議論の余地があるけれど。よく「そんな内容なら、インターネットで公開せずに、紙に書け!」っていうような話があるのですが、これもつきつめれば、絶対に他人に見られたくなければ、紙に書いて形に残すなよ、そんなもの、ともいえるわけです。
WEB日記のいいところって、知り合いには(たぶん)みられないけれど、誰かが見てくれるっていうところ。紙の日記なら、そう簡単に自費出版するわけにもいかないし、道端に転がしておくわけにもいかない。
ときには反響が来たりして、有頂天になったり。

でも、日記って、他人に読まれることを前提にすればするほど、書きにくくなってきます。「私」を浮き彫りにするためにはじめた日記が、読んでくれる人の好みに合わせたもの、話題になりそうなものという「世界」に適応していってしまう。
それは、「日記」にとって、幸福なものなのかどうか。
むしろ「日替わりエッセイ」といったものになりがち。
(ちなみに、「活字中毒。」は、もともと「日記」だとは思ってません。)

なんだか、議論のための議論を行ったり、他人を貶めるための「日記」が多いような気がするのです、このところ。まあ、現在は、それはそれでひとつの形式にはなっているんだけど。この文章は、「日記」って、なんだろう?といことを考えさせられました、ひさびさに。
この筆者に対して。全部、その通り!と思っているわけじゃないけれど、考えるきっかけとして。

WEB日記を書いていながら、ほんとの「日記」を書きたいと思っている人って、けっこう多いんじゃないでしょうか?




2002年03月05日(火)
2002年3月5日。

群ようこの対談集「驚典」(講談社文庫)
古書店主の作家、出久根達郎氏との対談より抜粋。

出久根氏の「多くの女性は、人の読んだものということで、古本を非常に嫌がるわなんですが、そのへん、どうなんでしょうか?」との問いに答えて。

群「私も友達に『そんな誰が読んだかわからない古本屋さんの本なんて、汚い』って言われて、釈然としないわけですよ。私も汚いって言われてるみたいで(笑)。
もしかしたら、そういう人たちは自分が汚い読み方をしてるんじゃないかと思ったりしたんです。自分がちゃんときれいな読み方をしていれば、誰が読んでも汚いって感覚はないんじゃないか、と思いますけどね。

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最近は、ブックオフのような、明るい雰囲気の古本屋がたくさんできたため、以前ほど「古本」に対する抵抗感はなくなってきているような気はします。なんといっても、安いしね。
でも、僕の中には、やっぱり大好きなものは新刊書店で、という気持ちがあるわけです。それはやっぱり、「本が綺麗だから」とかそういうことになるんでしょうかねえ。内容は古本屋で買っても一緒なんだろうけど。
まあ、実際に古本というのはページが黄ばんでたり、カビ臭かったりすることもあるわけで、「汚い」という概念も、間違ってはいないと思います。
それでは、中身が汚くなるわけではない、CDやゲームはどうか?と言う話になると、それでも好きなものは新品を買ってしまいます、僕は。
パッケージはともかく、中のデータは同じ(CDなんか、多少の劣化はあるかもしれませんが、たぶん常人の耳では判別不可能)なんだから、客観的に考えると中古でもいいような気はしますが。

では、何故新品なのか?と考えると、もちろん、その作者やアーティストを応援したいと言う気持ちもあるんですが、中古だと「自分のもの」っていう気持ちが、なんとなく希薄になるのです。「前の人は、どうしてこれ売っちゃたのかなあ?」とかよけいなことを考えたりして。他人の影を想像してしまう。
彼女の前の男のことを想像する気分、というところでしょうか。
だから、どうでもいい本やCDは、中古でも何の痛痒も感じないのだけれど。
結局、モノにも「処女性」を求めてるってことなのか。

新品も、自分が一度触ればもう中古なんだよ、もったいない。
そう僕に言ったのは、誰だったかな…



2002年03月04日(月)
2002年3月4日。

日刊スポーツのWEBページより。

<クルマ診断>
 新型「マーチ」がついに発進! トヨタ「ヴィッツ」、ホンダ「フィット」などが激戦を繰り広げる小型車市場に、日産「マーチ」が約10年ぶりにモデルチェンジして参入する。5日の発売を前に、都内の日産本社で行われた発表会で、メール受信機能など、売り物の便利機能を徹底チェックした。
 運転席からメールが送れる! 新型「マーチ」の驚きのメール送信システム「カーウィングス」(オプションで4万9000円から)は、丸っこくてカワイイ外観以上のインパクトだ。

 運転席左のハンドブレーキの隣の端子に携帯電話を接続すると、停車時にクルマの場所をメールで知らせることができる。電話がかかってきても、マイクがあるから手を使わずに通話できる。クルマの中で置き場所に困っていた携帯電話も、これなら大活躍。操作ボタンはハンドルにも付いているから、ラクに操作できそうだ。

 もう1つのうれしい装備「インテリジェントキー」(1400CCに標準装備、オプション3万円)は、カギを持った運転者がクルマのそば80センチまで近づくと、自動的に感知してドアロックを解除する。ドアのボタンを押すだけで車内に迎え入れてくれる。抱えている荷物を取りあえず車内に入れ、ゆっくり運転席に座ればいいから、買い物時には便利だろう。

 スタイルは独特だ。流行のピラーの立った箱型ではない。曲線で包まれソフトな印象もあるが、タイヤがボディーの四隅に配され、スポーティーなイメージも同居している。

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「マッチのマーチ」の時代から、もうずいぶん経つ。
あの日産マーチの10年ぶりのモデルチェンジ。

それにしても、このわけのわからんオプション機能の数々。
「クルマのなかで置き場所に困っていた携帯電話も、これで大活躍!」
なんて、クルマのなかで大活躍しては、どう考えても危なっかしいと思うのだが。ハンドルから手は離さなくていいかもしれないが、気が散るのは自明の理。それに、停車時に車の場所をメールでを知らせる機能、って、カーナビつけたほうがいいんじゃなかろうか?これで5万なら、やっぱりみんな携帯使うと思う…クルマの中じゃなくても使えるしさ。
運転中くらい、メールや携帯に拘束されるのはイヤだ!って、みんな思わないんでしょうか?

「インテリジェントキー」も、オンナノコをびっくりさせるくらいしか使いようがない機能。オートロックの出始めの頃、「超能力!」とかいって、遠くからドアロックを開けたりしませんでしたか?僕だけ?

いろいろ書きましたが、マーチ、けっこう想い出のクルマです。
12年前、僕が大学に入った頃マーチは大人気で、当時僕が好きだった子もマーチに乗ってました。それで、彼女が「家族以外の人を乗せるのって、初めて…」とかいいながら、危なっかしい運転でドライブに行ったのを覚えています。四角くてコンパクトな、青いマーチ。

しかし、そういう初心者が好んで乗るクルマに「カーウイングス」は危ないんじゃないかなあ、やっぱり。






2002年03月03日(日)
2002年3月3日。

群ようこの対談集「驚典」(講談社文庫)より抜粋。
麻雀プロ、安藤満さんとの対談から。

安藤「一時期、麻雀離れがありましたけど、またこの頃復活しているみたいですね。あれは、ゲームソフトのおかげだと思うんですけど。いま、中学生、高校生は雀荘に行けないんで、ゲームソフトで覚えてる。だから潜在人口はかなり多いと思いますね。いまはそれほどでもないけれど、麻雀もののソフトは必ず当たるんですよ。そこそこ売れるということは、やっぱり覚えたい人が、どんどん新しく代わっていくんでしょうね。」

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僕は麻雀は、やり方くらいは知っている、というレベルなのですが、そういう人間にとっては、ゲームの存在というのは、確かにありがたい。
どんなに画面の前で悩んでても文句言われるわけでもないし、負けても金払わなくてすむし。まあ、お金が介在しないというのは、面白くないという意見も当然あるわけですが。
それにしても、最初は「麻雀をやりたいんだけど、相手がいない、という人がゲームをやってたわけで、今では、ゲームのみの麻雀人口って、実際に卓を囲む人口に近づいてきてるんじゃないでしょうか。むしろ、実際の麻雀のほうが、「コンピューター麻雀の現実版」のような位置づけになってるわけで。
競馬にしても、一時期の爆発的な競馬ブームを支えたのは、「ダービースタリオン」の力ではないかと僕は思っているのです。今、現実の競馬が売り上げダウンに悩ませれているのは、不況のためもあるけれど、競馬ゲームが面白くなくなったためではないかと。もしくは、自分が主役になれない「現実の競馬」というものにファンは飽きはじめてきたのではないかと。
ゲームでは、ダービーを自分で取れるわけですからね、誰も祝っちゃくれませんが。
バーチャルとリアルが、逆転しつつある世の中。
たとえば、一日14時間オンラインゲームで勇者になっている人にとっては、いったいどちらが「現実」なのか?
まさに「マトリックス」の世界。
僕は、あの映画を観て機械に夢をずっとみせてもらうほうがいいんじゃないか?」と思ったものです。
結局、現実というのは、人それぞれが認識している「主観的な情報」でしかない。

3月3日、本物の雛飾りは、まったく見なかったけれど、WEBサイトの壁紙では、たくさんの画像の「お雛様」を見た一日。




2002年03月02日(土)
2002年3月2日。

毎日新聞の記事より抜粋。

北海道栗山町の栗山小学校の女性教諭(51)が、スキー授業の指導で「自殺するように滑りなさい」という表現を使っていたことが、2日分かった。学校側は「不適切な発言だった」として5日に保護者に陳謝する。女性教諭は「子供たちが怖がっていたので、勇気を持って滑りなさいと言いたかった。不適切だった」と話した。

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「自殺するように滑りなさい」先生、語彙が貧困すぎます。かなりの急斜面を前にして、子供たちがひるんでいたようなので「清水の舞台から飛び降りるつもりで」ということで、こういう表現を使ってしまった、とのことですが。しかし、「清水の舞台〜」も現実的には、「死ぬつもりで」ってことですからね。
この先生、たぶん本気で自殺しようと思ったことがない、幸せな人なのでしょう。「自殺」=「勇気がいる」という解釈をしているわけですから。現実の自殺は、一種の強迫観念みたいなもので、「死にたい…」と思うレベルでは実行までには至らず、「死ななければならない」というくらい追い詰められないと、実際に行為に及ぶことは少ないようです。

確かに、不適切な表現ではあるけれども、「自殺」という言葉でこんなに責められ、毎日新聞に載ってしまうとは…そのことのほうが、僕には意外です。この言葉の不適切さよりも、「自殺する」すらNGワードにしてしまおうという社会的な締め付けを感じてしまいます。
そういう「自殺」に対する表面的な目隠しが、むしろ自殺を神秘的な儀式のように人々に思い込ませる元凶のような気もするのですが。
さんざん話題になった「完全自殺マニュアル」あれだって、読んでみれば単なる解剖学、薬学の本。

しかし、この先生、子供たちに嫌われていたんでしょうか?
どうして授業中の一言がこんなに広まってしまったのか。




2002年03月01日(金)
2002年3月1日。

塩野七生「男の肖像」(文春文庫)より抜粋。

 日本で、ある人に、こうきいたことがある。自分の意のままに人を動かせる人物がいるが、なぜ手足のごとく駆使できるのか、と。その人の答えはこうだった。
「手足と、思っているからだ」

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 アテネ民主主義の象徴、ペリクレスについて語った章にあった言葉。
実際に、ペリクレスが言った言葉ではないです。念のため。
他人に「命令」するということをなんの躊躇もなく出来る人というのは、そんなにたくさんはいないと思われる。が、まちがいなく、自分が命令すること、他人が自分の意のままに動くことが当然だと思っている人間というのは、存在しているのだ。
 僕は、外務省の官僚たちがどうして鈴木宗男議員の思いのままに動かされたのか、かねがね疑問だった。それには、予算を取ってきてくれるとかいうメリットだけでなく、「自分たちに命令するのが当然だと思う人間の力」に圧倒されてしまっていた部分があったのではないだろうか?

 しかし、まわりが手や足ばっかりの人生というのも、ややモノガナシイ印象もあるのだが。

 ちなみにペリクレスの治世は40年近く続いたが、彼は権力の座にあるうちに、財産を1ドラクマ(アテネの当時の通貨)も増やしも減らしもしなかったという。「彼は、賄賂については民衆がひどく鋭敏に反応することを知っていたのだろう」というのは塩野氏の言葉。
逆に、そこまで徹底しきれずに「ムネオハウス」とかつくってしまうところが、鈴木議員の器の小ささ、言い換えれば庶民性ということなのだろうか。

 じゃあ、俺も他人を手足と思うようにしよう!
とお考えのみなさん、きっと意識してそうしようと思っている時点で、ムリと思われます。残念ながら。