沢の螢

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新たな年の初めに
2006年01月01日(日)

大分前に頃柳徹子がテレビで言っていた。
「若い頃は一日が長かったけれど、五十,六十になると、10年が束になって飛んでいく感じ・・」。
私自身もまさにそれは実感である。
過ぎた日々を思い出すとき、若いときも、決して一日が長かったとは思わないし、いや、むしろ楽しいことは、アッという間に過ぎていくような経験の方が多かったと思うのだが、年を重ねてのそれと違うのは、まだまだ先に時間があると思えたことだろう。

昨年11月はじめ、ウイーンの大聖堂で、モーツァルトの「レクイエム」を歌うという、劇的な体験をしたが、日本から講演旅行に参加した120人のメンバーは、20歳の大学生から75歳のシニアまでの、多世代にわたる構成だった。
歌や練習については、年齢による差は、あまり感じなかった。
一時間直立したままのステージ練習では、基礎体力の劣っているはずの、私たち中高年よりも、若い人の方が、耐久力がないように思えたし、ソプラノとテナーの高音は、若い連中の方が勝っていたが、音楽の理解や表現、声のコントロールなどは、年齢差よりも個人差だと感じた。
旅行中、荷物を持ったり歩いたりの場面でも、年齢の高い方が若い人たちに、一方的に助けを借りたり、面倒をかけると言うことも、ほとんどなかった。
瞬発力や、スピードは叶わなくても、判断力や、想像力は、若さよりも、人生経験が上回る。
だから、いろいろな年齢の人たちが集まった団体旅行は、それなりに、得るところも、広がりも多く、プラスに働いたのである。
それよりも、一番世代の差を感じたのは、公演旅行が終わり、12月に入って、打ち上げパーティで再会したときだった。
「すばらしい体験に恵まれて、感動しています」という趣旨はほぼ共通。
高齢メンバーの多くが、「こんなことは、もう、これからの人生には、ないと思います」という感想が多かったのに比べ、若い人たちが、「今年こんないい経験をしたので、来年はもっといいことがあるのではないかと思います」と述べたことである。
当たり前といえば当たり前だが、残り時間の少ない私たちと、まだまだあと半世紀は生きる可能性のある人たちとの、決定的な違いを見たように思った。
来年に楽しみを求められる若さを、うらやましく思い、そして、いつ生を終えてもおかしくない年齢に達しつつある私たちの、残された時間を思った。
過ぎた日々は、あとから振り返ることが出来る。
青春も、恋も、権力との闘いも、私たちにはあった。
20代から50代にかけて、男の人たちの多くは、自分と家族のため、そして、それを取り巻く社会と国の経済を向上させるために働き、女性たちの多くは、それを陰で支え、また自分も参加して、人生を過ごしてきた。
でも、若い人たちにとって、行く手にあるものを想像することは難しいだろう。
これからの人生に何が待っていて、その中でどう生きていくのか、どうやって、自分の道を見つけるのか、すべては、未知の世界である。
期待と不安をない交ぜにした気持ち。
たぶん、笑顔で来年への夢を語りながらも、心の奥底には、それらの感情は隠されているだろう。
でも、過ぎてきた時間より、これからの時間の方が、ずっと多いのだという事実は、何にも代え難い。
10年が束になってと言える10年が、これから先残っているかどうかさえ予測できない世代にとっては、一日一日が大切なのだ。
昨日から泊まりに来た息子夫婦が帰っていき、また夫と二人になった静かな夜に、こんなことを書いておきたくなった。



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