沢の螢

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昭和80年
2005年01月19日(水)

今年は昭和で数えると、80年である。
戦後60年たち、その頃子どもだった世代が、かろうじて覚えている戦争の記憶。
あと10年もすれば、戦争の記憶は、完全に日本人の脳裏から消えてしまう。
人はあまりつらい、悲しい体験をすると、それを忘れたいという気持ちが強く、意識的に避けようとする。
私の一世代上の人たち、あるいは、実際に戦地に行った人たちが、長く沈黙してきたのは、そのようなことだったかも知れない。
戦争体験をを語り継ぐと言うことは、次の世代が同じ愚かな過ちを繰り返さないための、最も大事なことだと信じているが、一方で、最近、私は、それがどのくらい、役に立つのかと言うことに、いささか、疑問を抱いている。
文明は進歩するが、文化は、むしろ、衰退しているのではあるまいか。
遠い異国で起こっていることが、茶の間のテレビで、リアルに伝えられる反面、それとテレビゲームとの違いが、わからなくなっている人たちが、確実に増えているのだから。
些細なことで、人の命を奪うという事件が、多すぎる。
そして、それが自分に繋がる人間のしていることだという自覚がない。
インターネットで垣間見る、人を傷付けて、それを快楽にしているとしか思えないような人たちの遣り取りを見ると、人間は元もと、残酷で、攻撃的な生き物だと思いたくなる。
アフリカに住む野生の動物たちは、自然の摂理に従って生きており、たとえばライオンは、自分より弱い生き物を捕らえて、食料にする。
生きるための本能である。
しかし、其処には、神の摂理が働いていて、決して、自分の胃袋を満たすため以上の殺戮はしない。
縞馬や鹿などが、たまに餌食になっても、群れ全体が大量に殺されると言うことはない。
そしてそれらの生き物も、生きるための手段として、別の生物の命を貰っているのである。
多分、人類誕生の初期の人間も、同じ摂理で、生きていたのであろう。
だが、現代を生きる人間は、そんな単純な構図ではないようである。
大国が小国を支配するという図式も、ギリシャローマの昔から変わらないが、そのやり方が、だんだん巧妙になっている。
大義名分のベールを被せて、小国の平和を守るという形で、乗り込んでいき、ちっとも、その国の人達から、歓迎されていないのに、自分流のやり方を押しつけて、うまく行くと思っている。
命令で現地に行き、命の危険をさらしながら、それが、その国のためになっていないとしたら、若い人たちの気持ちは、すさんで来るではないか。
25年前、私は日本在住の外国人に日本語を教えるという仕事をしていた。
最初の生徒は、アメリカ人の若い人で、日本の大学に留学していた。
彼は、ベトナム戦争の末期に従軍したことがあり、その時、立ち寄った日本に興味を持ち、仕事を辞めて、来日した人だった。
彼が言ったことで、印象深かったのは、「アメリカは、戦争に勝つことは出来ても、その国の人たちの心までは、支配できませんね」という言葉だった。
彼の兄は、同じくベトナム戦に行き、そこで知り合った現地の女性と結婚、子どもが3人いて、ベトナムに暮らしていた。
「私だって、こうして日本に来ています。出来れば日本で就職したい。だからアメリカは、人材を二人失いました。アメリカの負けです」と、半分冗談めかしていった。
国と国が理解し合うというのは、根本的には、人と人とが、お互いを理解しようという努力なのだろう。
「鬼畜米英」などと言って、国民を戦争に駆り立てることが出来たのは、身近に、西洋人など、見たことのない人たちがほとんどだった、当時の日本人だからこそ、為政者にとって、可能だったのである。
今の日本人にとっては、アメリカもヨーロッパも、それ程遠い国ではない。
情報は隠しても、どこからか、入ってくるし、為政者にとっては、遣りにくい時代である。
大国の偽りの正義も、暴かれてしまう。
また、有効な意見も持たずに、ただ反対だけしていればよかった反対勢力も、頭を使わねば、支持されなくなった。
そのなかで、高齢化する昭和の戦争体験者達が、次の世代に、戦争の悲惨さと空しさを、どれだけ伝えていけるか、難しいものを感じる。
しかし、そうしなければ・・。

寒さの一番厳しいこの日、息子は39歳の誕生日を迎えた。
「おめでとう」のメールを送った。



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