沢の螢

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天使の横顔
2004年12月10日(金)

都心から郊外に向かう始発駅のプラットフォームは、やや込んでいた。
私は3人ずつ並ぶ列の、一番前にいた。
となりは私より年配の婦人。
「込んでますね」と話し掛ける。
席に座れるかどうかを、心配しているのだった。
「まだ通勤客が帰る時間帯だから、座れないかも知れませんね」と私は応え、滑り込んでくる電車の方角に目を向けた。
並んでいる列の少し離れたところに、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。
乗るつもりなら、どうしてちゃんと並ばないの、と私たちは思った。

東京の主要駅の、乗客が電車を待つルールというのは、かなり定着していて、ことに朝の通勤時間帯のそれは、見事なものである。
数分おきに到着する電車。
乗る人は列を作って待ち、1台発車すると、次の列がさっと隣に移動して、電車を待つ。
私はたまたま、この時間に乗り合わせて、そのルールを知らず、面食らったことがある。
最初は、駅が主導して、はじめたことなのだろうが、やがて、誰も何も言わなくても、その時間帯は、乗客が、自然にそのやり方で、整然と電車に乗り込み、発車する。
一台逃しても、直ぐ次が来ることがわかっているし、先を争って乗るよりも、この方が、早く、なめらかに行くことを、みなが知っているからだろう。
日本人の知恵。
世界に誇りたいくらいだ。
ただし、通勤時間帯とその乗客に限った話で、それ以外の場合は、時に、暗黙のルールを破る人も、少なくない。

さて、電車がフォームに滑り込んで、列がドアに向かって近づいたとき、最前列に並んでいた私たちのそばから、いきなり前に割り込んできた人間がいた。
離れて立っていた少年だった。
私ととなりの老婦人は、顔を見合わせた。
「ずるいわね」と二人とも思った。
並ばないで、割り込むつもりねと、暗黙のうちに、共同戦線を張り、黙って、その少年の行く手を阻むように、前に出て、開いたドアから乗り込んだ。
幸い、二人とも坐ることが出来た。
少年は、私たちに、先を邪魔されたために、一瞬遅く乗り込んだので、もう席はなくなっていた。
私と老婦人は、顔を見合わせて微笑んだ。
「坐れてよかったですね」という気持ち。
それから言葉には出さないが、列に並ばずに、横から割り込んだルール破りの少年を、阻んだという、共通の意識もあった。
老婦人は、ホッとしたように、目を閉じ、やがて、電車は走り出した。
しかし、私は見てしまったのである。
あの少年はどうしただろうと、そちらへ目を向けると、彼は、離れたブロックのドアの付近に立っていた、母親らしい女性に近づき、「ゴメンね」という仕種をした。
そして、その母親は、お腹が大きかったのである。
彼があんな風に、我先に電車に乗り込もうとしたのには、わけがあった。
身重の母親のために、席を確保しようとしたのだ。
母親は、彼に向かって「いいのよ」という風に、やさしく微笑んだ。
老婦人は、そんなことに気づかない。
そうだったのか。
直ぐに席を譲ってあげたかったが、それと知らず、少年の行動を阻んでしまった私は、直ぐに立てなかった。
わかっていたら、並んでいるときに、少年に言い含めて、自分が席を確保した上で、譲ってあげたのに。
かわいそうなことをしたという気持ちが、私の心をいっぱいにした。
人が理解できない行動を取るときは、何か理由がある。
そのことに、思い至らなかった自分を責めた。
身重な母親を庇って、周りの白い目に堪えながら、ルール破りをして、電車に乗り込んだ少年。
いけないことだということは、わかっている。
でも、彼には、身重の母親を気遣う気持ちの方が大事だった。
やがて、譲る人があって、母親は次の駅に電車が着く前に、坐ることが出来た。
少年は、その前に立ち、ホッとした表情をした。
やがて生まれてくる弟か妹。
少年は、いいお兄ちゃんになるだろう。
母親が何か話し掛け、それに笑顔で応えている少年の横顔をそれとなく見ているうちに、しばらく忘れていた大事な物を、見つけた思いがした。



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