沢の螢

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ネットのこわさ
2004年11月01日(月)

ブログが、爆発的に拡がり、私も6月から開設した。
ホームページと、ブログと、どう使い分けるか、まだ試行錯誤している。
ホームページは、私が、検索されない設定にしてあるためもあって、訪れる人は少ない。
せっせと書いている日記なども、ほとんど見る人はいないから、自己満足で終わってしまう。
そこで、最近は、ニュース性のある内容は、まずブログに書き、そのうちから選んで、ホームページに転載している。
そのままでなく、編集したり、修正したりする。
ブログは、設定上、コメントや、トラックバックされた物は、あとから直したりはしない。
またどんどん流れていくので、古い物を載せておく意味は、あまり無い。
しかし、ホームページは、もっと自由である。
推敲し、より満足のいく内容にして、載せる。
内容によって、複数のブログを持ち、ホームページを閉鎖することも考えたが、サーバーとの契約が来年2月まであるので、しばらく2本立てのままにしておく。

ホームページを作成するには、ソフトを入れるなり、自分でhtmlを駆使して、しなければならないが、いずれにしても、サーバースペースを借りたり、ページの設定を考えたり、多少の知識と技術がいる。
しかし、ブログは、出来合いのテンプレートに書き込むだけなので、手軽に開設できる。
そんなところから、この1年の間に、新規開設者がぐんぐん増えているようだ。
私が開設した6月には、300万件といわれたが、今は、どのくらいのブログ数があるのだろう。
シロウトが、世の中に起こっているいろいろな現象について、さまざまな考えを持ち、それを手軽に発信できるようになったことは、いいことかも知れない。
しかし、反面、私は一種のコワさも感じる。
インターネットの拡がりは、新聞、雑誌などの活字媒体よりは、遙かに速く、受け手の数も多い。
活字は、原稿を書いてから発信されるまでに、ある時間が掛かり、その間、推敲したり、間違いを直したりという、「間」がある。
読者投稿欄にしても、書いて送り、それが載るのに、新聞でも数日はかかるし、送った物が必ずしも採用されるわけではない。
ところが、電波は、この「間」の時間が短い。
入ってきたニュースを、あまり咀嚼しないで流し、順次追っていくという形を取る。
まず速いと言うことが、電波の特徴だからだ。
その後の状況に従って、修正されたり、付け加えられたりする。
それでも、テレビ番組などは、複数の目が入っているから、局全体が大きな過ちを犯さない限り、いろいろな番組を比べてみることで、ある程度の情報を把握することが、可能である。
テレビで新聞の投稿欄に相当するのは、電話やファックスによるアンケートであろうか。
いくつかの質問事項を用意して、それに応えたり、電話番号を決めて、イエス、ノーをポイントで決めるというやり方がある。
時には、ファックス、最近はメールでの意見を募って、番組内で紹介するという形を取っている。
これも、採用されるかどうかは、相手任せである。

そこにいくとブログは、自分の書いたエントリーを、公開するもしないも自分の判断、動機と時間とエネルギーさえあれば、誰でも、インターネット上に、公開できる。
シロウトの場合、インターネット上の名前を設定して、その名前の元に発信するわけだが、手軽に発信できると言うことが、両刃の剣となる。
誰かの実名を挙げて、中傷記事を書く。
それが、著名人で、すでに知れ渡った事実に基づいたことならともかく、たまたま事件に巻き込まれたり、被害にあった人について、事件とは、何も関係ない、その人の周辺事情や個人的履歴まで、あげつらって、ネット上で話題にする。
その例が、4月に起こったイラクでの日本人人質事件であった。
大手の掲示板に書き込まれた内容のひどさは、心が寒くなるものであった。
被害者は、イラクでの恐怖の体験に加えて、同胞達の、非難中傷の目にも、耐えねばならなかった。
もしかしたら、こちらの方が、受けた傷は深かったのではあるまいか。
今回、イラクに渡って、テロリストの犠牲になった香田さんの場合、死に至る行動についての批判記事の中に、死者の人格を貶めるような表現をしている物を見かける。
詳細は、何もわかっていない段階から、それは始まった。
家族に対しても、匿名での非難電話などが、少なくないと言う。
これは、恥ずべきことである。
言論の自由というのは、人に罵詈雑言を浴びせてもいいということではない。

私がイギリスにいたときのこと、新聞は”TIMES”をとっていた。
その読者投稿欄は、いくつかの決まりがあって、「王室に関する批判はしない」というのがあった。
その理由は、「王室は反論しないから」というのである。
反論しないのか、反論しないことになっているのか、その辺は定かでないが、ともかく一方的な批判記事は、載せないと言うことである。
昔から、死者を鞭打つのはいけないと言うのは、亡くなった人は、反論できないからである。
人が死んだあと、その人の生前の生き方や行動が検証されて、一定の評価がされるのは、時間が掛かる。
それは、歴史上に残る人物の評伝を見ても、見方がこれほど違うのかと思うほどである。
ましてや、名もない一般人が、不慮の死に遭遇し、家族が深い悲しみの中にいるとき、それに鞭打つ権利が、誰にあるだろう。
国のあり方や、為政者の言うことと、違う見方があってもいいはずだ。
現実に、誰も、その人の命を救えなかった。
その無力さとむなしさ。
私たちに出来るのは、黙ってその死を悼むことだけではないだろうか。



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