昨日、新国立劇場で、芝居を見る。 「線の向こう側」という題である。 出演者は、岸田今日子と二人の男優だけ、休憩無しの2時間、主にセリフだけで進行する。 長年戦争状態にある二つの国、その国境に添ったところに暮らす老夫婦、戦死者の死体のデータを作り、埋めることを生業にしている。 15歳で家を出て行った息子の帰りを待ち続けている。 ある時、戦争が終結、突然国境警備隊員と称する男がやってきて、老夫婦の家の真ん中に国境線を引く。 トイレはA国側、台所はB国側になり、夫婦は、それぞれの場所に行くのに、いちいち許可証を書いて貰わねばならない。 そうした悲喜劇のうちに、夫婦は、次第にその国境警備隊員が、自分たちの息子ではないかと思い始める・・。 これを書いたのは、1973年のチリのクーデターで、オランダに亡命したアリエル・ドーフマン。 新作で、今回が初演と言うことである。 長セリフの掛け合い、今日が初日とあって、まだこなれていない部分もあったが、引き込まれてしまうような内容であった。 男と女の間にある線、国と国の間にある境、人間の生きているところに必ず存在するボーダー。 それは、ひとつの存在の証でもある。 そこで思い出したことがあった。 イギリスの地下鉄の座席は、ひとり分ずつ仕切が設けられていた。 それは決してゆったりした広さではなく、体の大きな人、太っている人には、ちょっと窮屈なほどの幅だった。 しかし、その一つを占めている間は、ひとり分のスペースは、誰にも侵蝕されないテリトリーである。 イギリス人は、狭いスペースをはみださない範囲で、新聞を読んだりしていた。 周りと線引きすることで、自分を守り、同時に、周りのスペースも尊重しているのである。 どんなに混んだ電車でも、人の体に触れないように神経を使うイギリスでは、押し合いへし合いの光景はほとんど見られなかった。 これも、見えない「線」を、引いていると言うことであろう。 線のこちら側と向こう側。 それを意識することで、自己の存在意義を知り、見えてくるものもあるのかも知れない。
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