子どもの頃、ターザンの映画が好きだった。 もとオリンピックの水泳選手だったジョニー.ワイズミューラー演ずるところの初代ターザンは、森の中で暮らしている。 皮の腰布を付けただけの姿で、妻と子ども、動物たちと、原始に近い生活をしている。 木から木へ跳び、川を泳いで、獲物を捕り、平和で、愉しい暮らしである。 そこに時々、侵入者が現れて、悪いことをする。 強いが優しいターザンは、平和を乱す悪人達と、決然と戦う。 その姿はとても、素晴らしく、当時の映画館は、観客がスクリーンと一体になってみる習慣があったので、妻や子や、動物たちの危機を救うためにターザンが現れると、拍手したものだった。 日本映画でも、鞍馬天狗などはそうだった。 悪を懲らしめる正義のヒーローは、人々が持っているひとつの夢かも知れない。 水戸黄門のテレビが、長寿番組になっているのも、これと同じ理由であろう。 しかし、現実の人間社会は、もう少し複雑で、正義の姿は、誰が見ても同じとは限らないのである。 特に、企業や政界、学校、地域社会、小さなグループにあっても、個人の正義と組織の正義が、いつも一致するわけではない。 最近、話題になったいくつかの医療事故、病院の名誉と社会的地位を守るために、まず事実を隠すか、あるいは、公にして、社会の審判を仰ぎ、潔く断罪される道を選ぶか、それを決めるのは、そこに働く人たちの正義が、どこにあるかと言うことで決まるのであろう。 こういうものが、外に出るのは、多くは内部告発かららしいが、告発する人も、組織の正義と、人としてのあるべき正義との狭間で、悩むに違いない。 あるいは、そんなこころざしの問題とは別の、利害が絡んだ結果かも知れない。 人が集まるところには、必ずそうした問題がある。 組織、あるいはグループの対面を守るために、本当は正しくないと解っていながら、邪魔になる人を切り捨てるということも起こる。 これは、大変理不尽なことであるが、現実には、あちこちで見られることである。 その場合、切り捨てられた人間はどうするか。 黙って、しばらく様子を見る。 正面から、反論なり抵抗を試みる。 そこから離れ、別のところに居場所を探す。 まあ、こんなところであろう。 もっと、元気のいい人なら、別の組織を作って、そちらに人を集めることもするかも知れない。 邪魔者を追い出した方は、組織としての正義を守るために、すべての罪を追いやられた人に被せ、メンバーにもそのように言い含めて、相手があきらめるのを待つ。 しかし、自分たちの不正義は解っているので、そのままで済むかどうかという不安は、常につきまとう。 黙って、済めばいいが、いずれ何かの形で、返ってくるかも知れない。 それが怖さに、相手を抹殺して、殺戮を繰り返していったのが、ソビエト時代のスターリンであった。 独裁者の正義は、相手を殺すことによってしか、守られないのだから。 小さなグループであっても、生きながら殺すという点では同じである。 抹殺された人間が、真剣に問いかけた疑問に答えず、握りつぶし、あるいは、とぼけてはぐらかす。 そんな人が、例え世界平和を唱え、平和運動に身を挺していたとしても、それはまやかしであり、ポーズにしか過ぎないのである。 直接肉声を訊ける相手に対し、誠実な態度を取れない人が、口先で人類愛を唱えても、誰が信用するだろうか。 それが見抜ける人というのは、実はそう多くない。 だから老獪な妖怪が、大手を振って歩けるのである。 水戸黄門に出てくる悪代官は、見るからに悪相をしているが、現実の悪人は、見分けるのがむずかしい。 しかし、そういう人がいないと、ドラマは平坦で面白味に欠ける。 その意味では、悪人も、存在意義があるのかも知れない。
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