a Day in Our Life


2006年10月10日(火) 悪月。(コウムラ+黒トクマ)


 「お前に”トクマ”を渡すつもりはないで」

 それを言うとこ思って、とトクマは言った。
 「…何の話や」
 「しらばっくれるなら、ええけど」
 ぎゅ、と手に嵌めたグローブの紐を結んでいた動きが止まった。それは手持ち無沙汰な時につい、そうしてしまうコウムラの癖だった。顔を上げて、視線を合わせた目の前のトクマは、コウムラのよく知っている”トクマ”ではなかった。
 「好きなんやろ?知っとるよ」
 「やから、何が」
 「誰を、と聞くべきやな。愚問やろ。お前は”トクマ”を好きなんやろ?」
 正確には俺ではない”トクマ”や、と言ってトクマは笑った。”トクマ”ではない笑い方をするトクマは、もうコウムラも身をもって知っている、”トクマ”のもう一つの人格だった。ひどく傾斜的なその人格は、”トクマ”の表情を消して今、歪んだ笑い顔をコウムラに向ける。
 「なぁ、お前。”トクマ”を抱いた?」
 楽しげな笑いを滲ませて、トクマは一歩、コウムラに迫った。じり、と一歩ずつその距離を縮めるように、覗き込む顔を近づけて。吐息のかかる距離まで。
 「俺が知る限りはまだ、や。たぶん」
 「…」
 「でもいつかは抱きたい思ってる、そうやろ?」
 なぁ、お前。俺を抱きたい?
 にやり、と音のするような鮮やかな笑顔を浮かべて、鋭角に歪めた唇の端から八重歯が零れた。”トクマ”と同じその歯を目に留めたコウムラは一瞬、僅かに怯む。そんなコウムラの反応を見逃さなかったトクマは、満足げにまた一歩、コウムラに近付く。殆ど唇が触れそうな所まで近付いて、戯れにふ、と息を吹きかけた。
 ”トクマ”と同じ顔をした全く別のトクマ。
 ”トクマ”であって”トクマ”ではないトクマは、けれど本当に”トクマ”ではありえないのだろうか。コウムラにしてみれば、表面上は見分けのつかない同じ生命体なのだから、きっと抱いてしまえば違いはないのかも知れなかった。けれどそれでは何かが違う、何かが壊れてしまうから、懸命に目を叛けようとするコウムラを、トクマは離さない。
 だって、トクマは”トクマ”に触れる事が出来ないから。
 トクマの大事な”トクマ”を、コウムラが奪おうとするなら、コウムラの大事な”トクマ”をトクマは奪おうと思う。コウムラの想いを踏みにじる事で、思い知ればいいと考える。”トクマ”の顔を、声を、体をしたトクマをコウムラが抱けばいいと思う。きっとトクマは”トクマ”にそれを知らしめるから、知った”トクマ”がどうするのか、―――どうなるのか。その時トクマは優しく”トクマ”を抱き留めてあげようと思う。
 「なぁ、無理せんでええよ。我慢してんと…触れたらええねん」
 言いながらトクマは、吸い寄せられるようにしてコウムラの紅い唇に触れる。噛み付くようなキスをしながら、ゆっくりとコウムラの目線が戻って来るのを、じっ、と見つめた。

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