a Day in Our Life


2006年08月27日(日) 朧月。(コウムラ×トクマ)


 航海に連れ出したのは失敗だったのかもしれない、とコウムラは思った。

 荒療治と分かってやった事だった。トクマの内なる人格は、初めてその存在を知った頃に比べて、どんどんと凶暴になっていった気がしたから。手遅れになる前に、と行動を起こした。どう接してやればいいのかなんて分からなかったから、連れ出して、突き放して、後はトクマ本人の気持ち次第だと。
 それは、ある意味コウムラの逃げだったかも知れない。直接接するのが怖いから、そうやって突き放した振りをして。その実つかず離れず、側に置いた。コウムラ自身もどうしたいのか、正直分かっていなかったのかも知れない。
 今、目の前のトクマはぐらぐらと揺れる目を彷徨わせて、ただ空を見る。そこに何があるのか、或いは何もないのかも知れない。薄っすらと笑みを浮かべたその顔は、何に対して微笑んでいるのか。幸せなのか、不幸せなのか、笑う事に意味はあるのか、それとも何もないのか。笑うトクマの顔にはけれど、何の表情も読めなくて、まるで壊れたオモチャを思い出させた。
 幼い頃、よく遊んだオモチャ。コウムラはそれをとても気に入っていたのだけれど、ある日突然に壊れて動かなくなってしまった。いつものように動かないそれを、コウムラはとても残念に思ったけれど、壊れてしまったのなら仕方がないのだと、諦めて、忘れてしまった。
 壊れたトクマも今、いつものようには動かない。座り込んで、ぼんやりと虚空を見上げる。その視界の中に入ってみても、とろりと虚ろな目は、コウムラを映さない。
 「トクマ」
 ぽつんと一回。呼びかけに、のろのろと反応を示したトクマがぎこちない動作で口を開ける。けれど出て来た言葉は不明瞭で、まるで意味を成さなかった。その、聞き慣れた声も。知っているようでまるで知らない。トクマでもない、もう一人でもない。ならば今、ここにいるトクマは一体何者なのだろうか。
 「トクマ、」
 覗き込むように顔を近づけてみる。至近距離で見たトクマが、僅かに微笑んだ気がした。
 「……クマ、」
 腕を伸ばしてその体ごと抱き留める。鼻先を掠めた緩いパーマの毛先と仄かなシャンプーの香りが、そこだけ妙にリアルなトクマを思い出させて、コウムラの胸を締め付ける。この、腕の中にある体は確かにトクマには違いないのに、この空虚な感じは何なのだろう。
 「―――――してくれ」
 搾り出すような声が出た。トクマの首筋に吸い込まれた声は、祈りにも似て、コウムラの内心を暴く。
 泣いてトクマが戻って来る筈もないのに。
 こんな事になるくらいなら、あの時一緒に泣いてやればよかったのだ。今更後悔をしても遅い。だからきっとこの涙は、その時流す筈だったものよりもっと切実で、もっと悲しい、絶望の。
 「トクマを、返してくれ…」

 その願いに、答えるものは何ひとつなかったけれど。



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おぼろ‐づき【朧月】水蒸気に包まれて、柔らかくかすんで見える春の夜の月。

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