白木蓮の咲く庭で...久純ゆきの

 

 

『糺』 - 2009年01月29日(木)

「私は、あなた」


りん――――。


「あなたは、私」


―――――ちりん。



目の前の少女が一言言葉を紡ぐと、
澄んだ鈴の音が響いて、千鳥の周囲を囲うように、銀と金の光の筋が走って消えた。


(何、これ――?)


真っ暗な闇の世界の中に、
千鳥と、まるで千鳥を幾つか幼くした容姿の少女は、たったふたりで向かい合っていた。
広い世界を満たすのは静寂。
それはもう、何度も何度も見た世界だった。
銀の髪の魔性に連れられて通った、現実では無い、もうひとつの現実。
いつも醒めれば夢の中の出来事のようで、けれど確かにこの世界は真実だった。


ひらりと、淡い金色が千鳥の肩口から抜け出て視界の端を舞った。
それは蝶。
後翅に銀の筋が混じり、淡い光の尾を引いているように見える。
この蝶々の存在が最も証しに近いかもしれない。
千鳥がこの暗闇の世界で譲り受けたものだ。
御白市の土地神――あの時と姿は違えど、恐らく目の前の少女と同じ存在から。


「あなたは私。私はあなた」


十に届くか、届かないかというところだろうか。
千鳥より幼い容姿でいて、ずっと大人びた口調で話す少女は再度繰り返し告げた。


ちりん、りん、と千鳥の周囲で呼応するように音が鳴る。
何だろうと首を傾げる。
その眼前を、ついと指一本分の幅ほどの光条が横切った。
右から左へ。後ろから回って目の前を通って、また後ろへ。
残された光が跡の様になって千鳥の周囲に漂う。
不意に、記憶の中の何かと重なった気がしたが、
それに焦点を合わせる前に少女が言葉を紡ぎ始めた。


「あなたは、私から零れた私の願い。消しきれなかった、望み」


ちりり、と見えない鈴の音が短く激しく響いた。
悲鳴のようだと千鳥はぼんやりと思う。
目の前の少女は真っ黒な瞳をしていて、そこだけが千鳥の琥珀色とは違っていた。
凪色の黒。
全てを吸い込み包むような艶やかな漆黒。
静かで、静かすぎて、全てを巻き込む彩。


「……うん?」


それ以上聞きいてはいけない、耳を塞ぎたいと
警鐘を鳴らす感情を抑えるのに必死だった千鳥の返答は冴えない相槌だけだった。
少女は淡々と紡ぐ。


「だから、付け入られてしまったの――あの銀色の闇に」


(付け入られた?)


ちりん、――――りん。


言うまでもなく、銀色の闇とはあの魔性だろう。
夢で何度も、この世界にでも幾度も後を追った銀髪の魔性。
深淵の様な赤い瞳を持つ孤高の立ち姿。


「そして、あなたが生まれた」
「わたし……」


零れ落ちた願いの欠片。
共にはぐれた力の片鱗。


心中を過ぎったそんな言葉に、
真っ黒に焼けた御神木の姿と、黒い花びらに埋め尽くされた街の記憶が重なる。
後から後から積もり続ける黒い花びら。
人々の心に零る絶望。
一度も己に関することを言葉にしなかった銀色の魔性は、
最初からそれだけを意図していたのだろうか。


願いにかき乱され力の幾許かを削ぎ落とされた不可侵の土地神は、
度重なる悪意に侵蝕されて力尽きようとしていた。
御白市の守護は崩れて――たくさんの悲鳴と怒りと涙が生み出された。


千鳥は目の前の少女にも悟られないよう、静かに一度深呼吸した。


(私が生まれたのは、罪なことだった?
 私がはぐれさえしなければ、御神木は揺らぐ事無く守られ続けた?)


言葉どころか、喘ぐことさえ出来なかった。
唇を少しだけ噛み締める。


りぃ――――――――――――ん。


光が、俯いた視界を横切った。
千鳥の周囲に幾重もの螺旋。


(私の存在は、罪? ――私は、つみ……)


そう思えば目の前は暗くなるようだった。
鉛を飲んだように胸の辺りが重く、
幾ら呼吸を繰り返しても肺に空気が届いていない気さえする。


守りたいと、思う前から壊していたのだろうか。
半年ほどの間に千鳥の傍に生まれた、南条探偵事務所からつながる世界。
そしてもうひとつ、目覚めてからずっと『帰る場所』だった研究所。


ふたつともいとおしくて、ふたつとも大事で。
両方とも傷ついた。片方は壊れて、もう片方も今にも壊れそうだ。


御神木が倒れなければ、南条姉弟はあんなふうに傷つかずに済んだだろうか。
荒れ狂う煉を心配したあずさが捕らわれることなどなかっただろうか。
――姉妹を攫われたあずまは泣いていた。
穏やかな真智花の表情には不安の翳りが差して、
真白の纏う雰囲気は緊張感で痛いほどだった。
彼らを取り巻く人々に伝わり、それを囲む人々にもまた響いてゆく。
負の感情の輪廻。


御神木が揺るぎさえしなければ、父さまが罪を犯すまでにもっともっと間があっただろうか。
その間に、誰かが彼を止められただろうか。
もしくは命潰えるまで、走り出させずに居られただろうか。
ルイお姉さんは捨てられることに怯えなくて済んだのだろうか。
シズカお姉さんもまた――。
時間さえあったら、レイジお兄さんにも違う日々があったのかもしれない。


(傲慢、って言われるかな)


ちっぽけな千鳥一人にそこまでの影響力など無い、と。
全員に言われそうで、でも今この場所にその言葉を紡ぐ人は居なかった。
ひとりだった。


ちりんちりんと鈴が鳴る。
次第に形作られてゆくそれは、千鳥がよく知っているものに似ていた。
研究所でも指折り愛しく思っていた硝子の温室――鳥篭を模した場所。
そして今また、千鳥を包むのも。


ちりん。


螺旋がまたひとつ重なった。
それは鳥篭の横の格子に良く似ていた。
鈴の音が紡ぐ金と銀の檻、光の鳥篭。
目の前の少女の一言が、千鳥の罪の意識が、織り上げてゆく鳥篭。


「わたしは、今から目覚め直す。もう一度生まれ直して、護りに」


それ以上言葉はなく寄越されたのは黒い瞳だったが、
あなたはどうする、と言外に問いかけられてるのは解った。


(――……尋ねるくらいなら……)


抗いの間も与えずに連れて行って欲しかった。
問いの形をしていても有無を言う余地など無い――少なくとも、千鳥には。
止める人も物も無く、好きなだけ流れてたゆたう千鳥の罪の意識は、
芽生えたばかりの儚い望みを狩るばかり。
今にも崩れ落ちそうな愛しさの吐息を奪ってゆくだけだ。
残るのはただひとつ。
役目と相反しない、守りたいと願った気持ちだけ。


小さな彼女ひとりが戻っても、その御神木はきっと完全ではないのだろう。
只人の力でも簡単に手折れてしまうような、
強い嵐で倒れてしまいそうなか細い若木。
それもまた、銀の魔性が願った姿なのかもしれない。
取り入りやすい力の結晶。

鈴の音が鳴り続け、役目に千鳥を繋ぐ鳥篭は、ますます形をあらわにしていた。
籠がささやく。戻れ、と。
千鳥自身が罪ならば、――返せない、戻せない破壊を生んでしまったのなら、還れと。


(せめて、続く世界をより強い形で)


守ろうか。


そう思った千鳥の脳裏に、不意にひとつの映像が過ぎった。


病院、だろうか。
ふたつ並んだベッドの上。
長い黒髪の少女は千鳥だ。
外傷はまるでなく、まるでただ眠っているかのようだ。
呼吸はか細く間遠く、胸の動きは掛けられた薄い布団の上からでは見て取れない。
そしてその布団から出た片手はしっかりとつながれている。


相手は隣の寝台の上、短い髪の女性。
布団から出ている箇所には包帯の巻かれていない場所が無いほどだ。
恐らく怪我は全身に及ぶ。痛むのだろうか、その表情は険しさが取れていない。


(密お姉さん……――)


お姉さんの守りたいものを、たくさん傷つけてごめんなさい。
お姉さんの世界を、脅かしてごめんなさい。


(――私が還って大きな御神木が戻ったら、煉お兄さんはもっともっとずっと楽に生活できるかな?)


最後に見た彼女は、弟の陥った境遇に酷く心を痛めていた。


(千鳥が居ることで、何ひとつさえ守れない。何ひとつさえ解らない)


密もまた、守りたい世界のひとつ。
千鳥が、千鳥の我侭として望むのはたったひとつだけだ。


(――けれど、それは。遠くて、ねぇ)


たったひとつの面影に、寝台の上の彼女の笑顔が横入る。
思わない。
思いたくない。
――多分、千鳥よりずっと望まれていたのかもしれないなんて。


けれどそれも、実際には解らないままだ。
父さまの望みの理由も、描いた未来も、其処へ導いた過去の像も。
何一つ千鳥の中には結ばれない。
真実かどうかも解らないから、
ささくれのようなささやかで小さな傷は、見えない振りをする。
それは、これから還る場所には相応しくない。


「……戻るよ、其処へ」


すべて飲み込もう――罪はいくら償っても拭えないから。
代わりに背負おう――生まれてきたことで、何かを揺るがした可能性があるなら。
決して泣いたりしない――涙を流すのは、つみびとの千鳥以上に相応しい人がたくさん居る。


手を差し伸べた。


「そこにはもう、あなたは存在しない。みんなが大切な、いとおしいものになる世界」
「うん」


(それを痛いという資格は千鳥には無いから)


頷くと、少女からも伸ばされて手と手が重なった。
温かいのに、一筋のつめたいものが胸のうちを降りていく。


どれだけ羽ばたきたいと願っても、空が一条の光さえ無い夜なら、迷子になるだけだ。
そして、ひとつの望みが幾千万の傷を生んだのなら、
もうこれ以上、羽ばたきたいなんて希いはしない。


だから。


(ねえ、ルイお姉さん。最後にひとつ、千鳥、確信したのよ)


「ひとつだけ、願いがかなうなら。――もう、父さまみたいな悲しい人が、生まれないように……」


意識が遠くなっていく。
次に晴れた時に、もうそこに千鳥は居ないのだろう。
ならば。
千鳥はずっと眠ったままで居よう。
世界を揺るがした我侭の結晶が千鳥なら、千鳥はずっと眠っていよう。
眠ったまま還ろう。
もう二度と、はぐれたりしないように。
甘いだけの夢は見ないように。


(誰かと立場を比較なんてしたら、やっぱり悲しみしか生まれないの)


「……さよなら」


つぶやくと同時に、視界がぼやけて世界が急速に遠ざかってゆく。


世界にたった一人にしか見えない鳥篭の中。
誰にも聞こえない、受け取ってもらえない孤独な別れの言葉は、
最初から存在していなかったかのように虚空に吸い込まれていった。



...



 

 

 

 

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