『早春香』 - 2007年11月29日(木) 「いつも笑ってなさい」 書斎のソファに背を預けた姿勢で、兄は言った。 胸の下で軽く腕を組んで、自然に伸ばした足も交差させて。 夕食はとうに済み、就寝までもう間もなくの頃の団欒の時間。 それは養父母が亡くなってから、 兄に用事の無い夜には必ず取られるようになった一時だった。 そんな時間は1年半の間、兄妹の日常だった。 近く必ず訪れる別れの時までに、何かをイオンに刻みつけるように、 兄はイオンを隣に座らせて静かに話し続けた。 その日の出来事であったり、兄が読んだ本の話だったり、 幼い子供が寝物語にねだるような御伽噺の時もあった。 そしてイオンがそれに問いや疑問を投げかけるうちに、 最後には自然と訓示めいたものへと結ばれてゆく。 それは、或いは一冊の本として纏められるくらいの量ではあった。 けれど兄は筆跡として残すのではなく、 やわらかく優しい声音でイオンの記憶と心に刻んでいった。 折に触れて不意に甦っては、道標をとなるように。 「それでもどうしても泣きたい時は、大好きな人の傍で泣きなさい。 一人で泣いていると、涙でいずれ心が凍る。 ぬくもりで必ずあたためられるように」 ぬくもりは、人と人との間に生まれるものだから。 それは兄の哲学と、言い換えても良いのかもしれないとイオンは思う。 一見矛盾を内包して居るように見えながら、 イオンをまっすぐに生かすために与えられた言葉の数々。 望みを持って生きなさい。 けれど、望みを生きる理由にしてはいけない。 指針の範囲に留まらなくなった望みは、いずれ暴走し始める。 理想を持って生きなさい。 それを忘れて振るわれる剣は、ただの暴力になる。 けれど理想を理由にして剣を振るうこともいけない。 剣は力であるがゆえに、いちばん罪に近い場所にある。 守るためであれ剣を持つならば、 大胆にそして謙虚に振るうようにしなさい。 …………。 それは、頭で理解するものではなかったのかもしれない。 一方で感情を抑制し、そして一方では突き動かす。 両方の役割を持った其れはイオンの心に天秤を作り出して、 いつもゆらゆらと揺れていた。 一方に傾きすぎれば、必ずもう片方にバランスを取るようにと。 素直に育てられた少女の心に植えられた、春の香りのする種。 追いかけてゆけば空に翔け昇れてしまいそうな、遥かで気高い芳香。 天秤が揺れるたびに、イオンはその春の香りを思い出す。 「いつも笑っていなさい」 兄がくれた翼は、力強くしなやかだ。 イオンはそれに自分の羽を足して、生きてゆく。 軽やかに、時には素早く。 舞うように駆けるように。 ...
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