白木蓮の咲く庭で...久純ゆきの

 

 

『対の花』 - 2005年04月14日(木)

玄関を開けて外へ出ると、低く高く途切れがちな旋律が響いていた。

今宵の空には、弾けた綿花の実を幾つも重ねた灰色の雲。
月光を遮って軽く厚く風に流れていく。
目の前に広がる庭園に植えられた花たちは眠るような錆色に沈んでいる。
折門の満月。
本来なら零れて止まないはずの光は、地上まで届かない。
切れ間にほんの僅かに覗いても、
またすぐに覆い隠されてしまう。

夜風は強く冷たかった。
枝の張り出した空木が、葉擦れの音をさせて西へ西へと歌う。
その蕾はまだ白く固いまま。
初夏と盛夏の堺に咲く花の季節は未だ遠い。

庭園を一通り見回した後、
香雪は風にまぎれて掻き消えそうな音色を辿って歩き出した。

お行儀よく並んだ花壇の横を通り過ぎてしばらく行けば、
微かに流れる水の音。
作られた清流は龍の体のように長くうねって曲がり折れながら続いていく。
その流れに切り取られた地面を埋めるようにして咲く、
赤、白、薄紅と色とりどりの躑躅。
杜若の藍色は夜に染まって今は見え辛い。

流れに沿って時には飛び越して進んでいくと、
敷地を仕切るように植えられた雪柳と花海棠の列。
上半分は桃紅に、下半分は真っ白に。
俯いて咲く大きさの違う花が、風にゆうらりと首を傾げる。

掻き消えそうな音が次第に強く聞こえてくる。
爪で玄を弾いている、琵琶の音。
相応しい技量の持ち主の手にあれば大層豊かに響くのだろうが、
この弾き手が常に楽器を手元に置いているような人物ではないことを
香雪は良く知っている。
弾き慣れない未熟な楽師がぽつりぽつりと爪弾く音色は、
何と寂しく響くことだろうか。
被せるように、殊更がさりと音を立てて、海棠の枝を押し分けた。

「……木蓮」

藤棚の下に置かれた色褪せた木製の長椅子に、
目的の人物は白い着物の背中を見せて座っていた。
振り返る様子はないが、香雪は別段気にはしなかった。
躊躇うことなく背後に近づき、
木蓮の左手が押さえている部分よりも更に下の位置で弦に触れる。

次に奏でるはずだった音を外されて、
頼りなく流れていた曲が途端に弾けた。

弦を弾いていた右手が止まった。

「何か……?」

ゆっくりとした仕草で振り仰いできた青い瞳は、
茫洋としてつかみどころのない光を湛えていた。
一言「阿呆」とつぶやいて、その額を少し強く指先でつついてやる。

「ほら、寄越すといい」

香雪が引き寄せようとする力に、抗おうとはしなかった。
一度瞬くと、まるで雲が晴れるように、木蓮の瞳に意思が戻ってくる。
口許を引く仕草で微かに笑って、右手を上げる仕草で爪の要否を尋ねてきた。
香雪は首を横に振る。
代わりに懐から小さな木の撥を取り出し、立った姿勢のまま琵琶を抱え直した。

「故郷歌だったな」

それは質問ではなく確認だった。
一呼吸の後に撥を持つ手を上下に振った。

夜の静寂を裂くように放たれた音色が、競うように庭の隅々まで満ちていく。
故郷を偲ぶ思いを表現した物悲しい旋律。
木蓮はただ黙って、正面に見える花壇を見つめていた。
穏やかでいて、何かを惜しんでいるようにも見える表情。

そこにあるのは真白い牡丹の花だった。
凛と誇り高く開いた純白の花びら。

「自宅で故郷歌なんぞを奏でる阿呆もそうそう居ないだろうな」

演奏する手は止めずに、香雪は言った。
木蓮のくちびるの端に微笑が浮かぶ。だがそれだけで、返事は返ってこない。

「こんな夜中に哀愁ごっこをする暇があるなら、ばらしてしまえばいいものを。
 そのくらいでどうにかなるような間柄でもないだろうに」

平静を装って告げてみた。
以前似たようなことを言った武昂が、
絶対零度の視線で半殺しにされそうになった記憶は未だ生々しい。
跳ね除けられるのを覚悟で告げたのだが、
香雪の心中に気付いているのか。
木蓮は微かに首を横に振っただけだった。
髪の一房すらも乱さないその動作は、頑なな意志の表れか、固く結んだ蕾を連想させた。

「お前は本当に……阿呆だな」

ため息と共に言えば、今度は「はい」とゆっくり頷く黒髪。
思わず手を止めて、持っていた撥の尻で軽くその頭を小突いてやった。
くすくすと笑って頭に手をやりながら、

「酷いな、香雪は」
「そのままそっくり返すぞ。少しは申し訳なさそうにしてみろ」
「この件に関しては、ねぇ……。善処するとも申し上げにくいというか」

木蓮は逃げるように、座る位置を横へとずらした。

「是が非にでも善処しろと言いたい所だがな。
 せめて、表情くらい素直に出せ。私の前で無理をするな」

ため息と共に曲を再開すれば、また木蓮は微かな笑みに表情を戻す。
ふたりの視界の中で、白い牡丹はただ静かに風に身を任せていた。
白い王者の獅子と名づけられたその花。
何よりもこの苑の主が大切にしている花。

泣き顔と同じ意味を持つ微笑みと共に牡丹を見つめる木蓮は、
早春、空を仰いでただ咲き続ける白い木蓮の姿によく似ていた。


...



 

 

 

 

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