マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

『ノルウェイの森』と僕の中の「村上春樹的なもの」 - 2003年11月23日(日)

 最近なぜか、村上春樹の『ノルウェイの森』のことをずっと考えている。
 何度か書いてきたのだが、僕が高校生のときに大ヒットしたこの小説をはじめて読んだとき、「女の子にモテる」ということ以外は、多分に僕的なものが含まれた小説だという印象があった。
 そこには、本当に「世界に適応できていない」人たちにとっては、「現実世界との繋がり」のようなものであり、「世界に適応できている」人たちにとっては、「ちょっと場にそぐわない存在」である僕が居た。
 もちろん、今から考えると、そんな「現実に適応できていないという自覚」ですらも、けっしてマイナーなキャラクターではなかったのだが。

 以前、『ノルウェイの森』の感想について、同級生の女の子(という年じゃないね、お互いに)と話したことがあったのだが、僕はこの作品に「喪失」を感じたと言い、彼女はこの作品に「再生」を感じたと言った。
 僕が村上春樹に「再生」を感じたのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』からだったので、そういう意味では、僕の人生においては、「喪失」の割合のほうが高いのかもしれない。

 20代の前半『ノルウェイの森』は、僕にとってのひとつの「人生指南」だった。バカバカしい話だが、僕は何か行動を起こすときに自分で自分の行動を頭の中で描写し、気の利いたセリフまでつけてみせた。
 そして、実際には、その行動を起こさない理由ばかりが増え、何も変わらなかった。
 ただ、失うことが怖かったのかもしれないし、もっと正直に言えば、自分には「失ってしまうもの」すら無い、というのを実感するのが怖かった。
 そう、所詮そんなものだ。

 そんなことを考える一方、僕は、「忙しい」という理由のもとに昔からの友人と連絡をとらなくなったり、自分の仕事を中途半端にやってきたりした。
 自分だけが傷ついているわけじゃなくて、いろんなものを傷つけているのだ。
 それは、「お互い様」なのかもしれないけど。
 「人間なんて、そんなものさ」確かにその通りなのだけど、それを認めてしまうのは、すごく悲しい。
 それを悲しいと思ううちは、僕の人生はまだこれからなのかもしれないし、それを乗り越えなければ前に進めないのかもしれない。

 ある酒の席での話。
 「どうして、結婚しないんですか?」って。
 「うーん、うちの家は、あんまりうまくいってなかったから、それでかな…」と答えたら、相手はこんなことをさらりと僕に教えてくれた。
 「そうですか…でも、うちは、親が違う5人兄弟ですよ。」
 返す言葉がなかった。
 それを「5人くらい…」と笑い飛ばせるような人間であればいいのか、それとも、「それは大変だね」と真摯に同情できるような人間になれればいいのか。

 どちらでもない、と思いつつ、結局何も言えなくなってしまうのだ。

 世間には「村上春樹的なもの」と「村上春樹的なものと対立するもの」とが存在すると、昔は思ってた。
 でも、実は世界を満たしているのは、「村上春樹的なものとは、無関係なもの」なのだ。

 画面の向こうで汗をしたたらせるバレーボールの選手たちを横目で観ながら、僕は、自分の居場所をずっと考えている。
 


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