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■ 倫理学覚え書
『倫理学─価値創造の人間学─』 石神豊 著より
発見ということ
<求めよ、されば発見が>
「発見」 を英語ではdiscoverというが、これは 「覆い」 を 「取り除く」 という意味をもっている。
真理というものも、そうして発見されるものである。 ギリシア語で真理を 「アレーテイア」 という。 アレーテイアとは 「忘却」 の 「否定」 であり、忘れていたものを思い出すということである。
一つの問題をねばり強く考えていくと、あるとき突然、答えが与えられるときがある。 そしてその答えは意外にも身近なところにあったということを知るのである。 発見とは突然やってくるものといえるが、それはすでにそこにあったものが見いだされたのである。 それまではその周りをぐるぐる回っていたわけである。 このように、発見とは求めつづけることによって可能となり、要はその求めぬく真剣さと努力にかかっているといってよい。
<すべてが新しいということ>
ところで、自分が何か新しいことを見いだしたといっても、それはもうとっくに誰かがすでに発見したものであり、なにも新しいものなどは存在しないと思うかもしれない。 しかし、そう思う必要はまったくない。
いったい 「新しい」 とはどういうことだろうか。 「新しい」 とは 「初めて」 ということであり、(それを見いだした人にとって初めてだ) ということである。 ここから、一人一人が自分自身で発見していくことが大切だということになってくる。 なぜなら自分自身が初めて見いだしたものは、すべてが 「新しい」 もの、つねにニュートンのリンゴなのである。 別の誰かがすでに見いだしていたとしても、それはその人にとってのことであり、私自身とは別なのである。 本当の価値とは自分自身が創造するものである。 あるいは、(万人の) 真理といっても、それを私の真理としなければならない。 これはどこまでも各人のことがらなのである。
しばしば学問は真理の探究であるといわれるが、この真理もまた本来、各人のものにならなければならないものである。 「普遍的真理」 「客観的真理」 というような言葉に幻惑される必要はない。 自分 (主観) を離れて存在するものこそが客観的真理だとする考えがあるが、そうした真理はしばしば権威化する。 そして私を支配するものと化す。 権威となった真理は私のものではなく、おそらくそれは真理ということもできないものである。
「普遍的」、「客観的」 という言葉は、(誰にでも獲得できる) という意味にとらえるのがよいのではないだろうか。 つまり、この言葉は、私たちの誰もが (努力によって) 得ることができるということを示しているのである。
したがって、学問が生活を離れ、個々の人を離れたものとなってしまうような場合、そうした学問は、少なくとも私たちの学問ではないということになる。 とりわけ倫理学という、もっとも身近なこの生の世界 (生活世界) における問題を考えようとする学問にとって、この私を離れて真理や価値が存在するということはありえないのである。
自分で考えるということ
<考えるからこそ人間>
『論語』 に 「学びて思わざれば則ち罔し」 とあるように、いくら他人の話を聞いたり、書物を読んでも、自分自身で考えないならば本当の道理はわからない、という孔子の指摘があてはまる。 カントもまた 「哲学ではなく、哲学することを学べ」 と述べている。 既成の──つまり、他の人によってつくられた──体系をいくら学んでも真に学ぶことにはならない。 自身で 「哲学する」 ことこそが真に学ぶことである。 カントはまた、「自分自身の知性を用いる勇気をもて!」 と呼びかけてもいる。
<思考と人間の成長>
なぜ人間は考えるのだろうか。 考えることは疑うことであり、問うことでもある。 この人間の営みは、人間の成長の問題と深く関わっているように思われる。 人間が成長するということは、たんに体が大きくなる、あるいは年齢を重ねるということだけではない。 成長とは、むしろ自己が発展し、生きる世界を拡大していくことであろう。
<問いを学ぶのが学問>
疑うことがなにか悪いことと思うのは誤解であり、人に問うことが恥ずかしいと思うことは不要である。 「聞かぬは一生の恥じ」 ともいうように、問うこと、疑うことを避けてしまい、それによって自己の成長をとどめてしまうならば、これはマイナスだといわざるをえない。 疑うことはまったく自然なことである。 疑うとは、疑いをなくすために疑うのである。 あるいは、本当に信じられるものを求めるがゆえに疑うのである。
ただし、疑う、問うということには、ある種の技術が必要である。 この技術を知ることで、疑いから疑いへと懐疑の淵に陥ることを避け、あるいは思考の堂々めぐりを避けることができる。 この技術こそ学問 (あるいはとくに論理学) である。 「学問」 とは 「問いを学ぶこと」 あるいは 「問いかたを学ぶこと」 といいかえることができよう。 学問はけっして知識やその体系だけをさすのではない。 むしろ学問の本来の役割とは、私たち自身がことがらの真実に迫っていくために、そのきっかけや手段を正しく与えることにあるといってよい。
思索から自覚へ
<ソフィストのトリック>
なにかを探求するということについて、プラトンの対話篇 『メノン』 のなかで、ソクラテスは世の中につぎのような意見があるといっている。
「人間は自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。 というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。 なぜなら知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。 また、知らないものも探求するということもありえないだろう。 なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」 (『プラトン全集』)
よく考えてみれば、私たちがなにかを知りたいのは、むしろそれを完全に知っているのでもまったく知らないのでもなく、それをはっきりとは知らないからではないだろうか。 いいかえれば、私たちは知と無知の間にあるからこそ、本当のことを知りたいのではないだろうか。 そこに探求への意欲がわいてくるのである。
上の主張にかくされたトリックは、知と無知とをはじめから分けてしまっていることにある。 いわゆる 「知か無知」 かという二元論的議論だといってよい。 はじめに、人間は知か無知かのどちらかだとしておいて、人間はどちらかであるから、結局どちらにしても探求などありえないという論法である。 こうした議論は、ソフィスト的な議論である。 ソフィストは前提を自分に都合よくたてておいて、議論をその枠のなかでしか行わない。 それでは、本当の探求などできるはずもないのである。
社会と歴史に学ぶ
<社会と歴史に目を向けよう>
倫理学においては、自分で考えるといっても、けっして自己中心的に考えるということではない。 あるいは自分を考えるといっても、孤立した自分を対象とするということではない。 むしろそこには、つねに他の人や事物があり、そうした全体の中で思索するということである。 そして、自分自身を考えるといっても、それは同時にこの社会や歴史をになった私を考えるということである。 これが倫理的思索であり、倫理的探求である。
倫理的世界とは、関係の世界であり、「物」 「人」 「自分」 がそれぞれバラバラな世界ではない。 無関係なものはなに一つないのである。 私たちはこの関係世界のなかに生きており、つねに他の人や事物とともに存在していることを知るべきであろう。 その意味からも、広く学ぶということが必要であり、いかなるものからも学ぶという姿勢が求められるのである。
複雑化している現代社会ではあるが、しかしその主体はあくまで人間である。 社会とは人間みずからが生みだしたものであるということを忘れてはならない。 現代、ともすると社会を、人間の生きかたの問題と切り離して論じようとする論調が見受けれる。 そうした論調は、現在の社会問題の原因を私たちの生きかたの外に求めることとなり、ただ嘆いたり、解決をあきらめたりする傾向を生みだすことになるように思われる。 いわゆる批評家、知識人と称される人にそうした傾向が強い。
2007年10月09日(火)
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