仕事中にたまたま知ったのだが、 「DSCHINGHIS KHAN」(♪ジン・ジン・ジンギスカ〜ンって曲)は 原曲はドイツ語だが、実は日本語版が3パターンぐらいあるらしい。 歌の内容は「チンギスハーン豪快伝説」みたいな感じらしい。 …「なんでそんなにヒットしてんだろう、そういえば」という思いと、 この情報を仕事中にたまたま得てしまうって、 「私はどんな業務に従事しとんねん」という疑問とが、 わっははーっといっしょくたになる。 最近、家に帰ってもPCを開く気力がなく眠ってしまうことが多かった。 朝でがけにあわただしくメールだけチェックするという日々。 心と体が密接につながっている病気をした人間だから、 「ああ今、無理してるな、私」とは思いたくない。 さいわい今の職場で一緒に働いている人がいい人で大人なので、 仕事はハードではあるが、心はある部分ですごく軽い。 ここで年下だったりすると「いい人だけど、ちょっとやりづらい」 なんてこともままあるのだ。それも悪くないけど、結構難しい。 うちの会社は若者が多く、 私は大学でちょっと長く学んだくちなので、 新入社員だが自分よりも若い人が社内にたくさんいる。 若さと元気でいろんな状況を乗り越えてきた若い人に、 私のしみじみとお茶を飲むようなノリを理解してもらうのは難しい。 相手は「話せばわかる」と思っていたりするんだけど、 私はそうは思わない。 話しても話してもわかりあえないケースはいくらでもあるし、 言葉っていう手段は、実は数ある表現手段の一つでしかないから。 何かを伝えたくてたまらない、そういう気持ちに突き動かされて 人は絵を描いたりピアノを弾いたり歌ったり踊ったり、 芸術は「伝えたい、でも言葉にできない」から生まれるとも思う。 私は、相手を「わかる」なんて簡単に言い切れない。 十五年以上付き合いのある友達のことでさえ、 「あなたのことを理解してる」なんて私は言い切れない。 「あなたのいろいろな一面や癖を知っている」っていうぐらいだ。 人間は自分自身のことも全部は理解できないから、 他人を理解できなくても仕方ない、それが私が考える前提である。 だけど「えー、理解できないなんて寂しい」っていう考え方の人もいて、 「あなたのこと理解してるよ」なんて言ったりする。 この程度の付き合いでもう「わかったつもり」になるとは なんて危険なことだろう、と私は思ってしまう。 「理解」っていう言葉の定義が、 私とだいぶズレている人が結構多い。 わからないなりに、距離があるなりに、 相手を思いやったり敬ったりすればそれは暖かい関係だと私は思うが、 そんな距離なんておかずに奇妙な「連帯感」をほしがる人たちもいる。 「友達100人」作りたがるタイプだ。 私は、「ホントの友達」になれる相手なんて 生涯を通じて数人っていうレベルだと思う。 実際のところ、1人も出会えずに終わる人だって多いはずだ。 年齢は若いけどキャリアのある人、 逆に年上だけど最近中途採用された人、 雇用形態の違う人、…いろんな人がいて、 あるときは、お互いのしょっている肩書きを見つめあい、 あるときは、一個人として見つめあい、 その中で、立場という大きな筋を通しながら仕事をして 人としてもあったかいコミュニケーションをとるという関係性が、 うまくいく時はまったく問題なく構築できていくんだけど、 場合によっては、必ずうまくいくとは限らない。 そういう部分、今までの数年間は あまりにも、なにもかもうまくいっていたのかもしれない。 …って過ぎてみたから思うのか。 まあ実際、(社会の中で見れば)似た者だらけの大学時代だったり、 病気療養中の高校時代だったりして、特殊な環境だったことは確かだ。 うん、やっと社会復帰しつつありますな。 |