はー疲れた……なんて言って、目を覚ます。 目を覚ました時点で疲れてるとはいかがなものか、しかしながら 残念なことに「朝起きた時点でだいぶ疲れてる」っていう状況が 私の場合はそもそも日常的なことだった。 しかしよく眠った。時間というか、深さ的に。 小学校五年生の10月のある日を思い出す。 運動会の翌朝の休日のことだ。 その日はすばらしいことに宿題が出てなくて、 なんかの係をやらされて、(珍しく)よく動いた運動会の疲れが出て、 泥のように眠りについたのち起きた、その朝の気分。 その時「ああ、久々によく眠れたなあ」と思ったものだった。 こうして記憶に残ってるくらいだからよほどよく眠れたのだろう。 いつも朝が辛くてしょうがなかったのだろう。 夕べはよく眠れたし、……実は近年では、 「大きな頑張り」が終わった翌日はいつも「よく眠れた感」を覚えている。 その感は否めない。 最近、きっと若いんだなと思う。 まぁ同世代の他の人達と比べたら、 私がこなしている作業量なんて大したことないのかもしれないが、 それなりに一生懸命であるというこの状況は、きっと体にいいはずだ。 それと、自分のやっていることにプラスの意味を見いだしていれば、 駆けずり回るのも徹夜するのも決して悪くないということだ。 なんてことが言える。言えるようになった。 そしてこれは、いったん〆切が終わった時点だから言えるのだ(……笑)。 それこそ小学校時代は世間や人生を冷めた目で見ていたけれど、 最近、それだけじゃつまらんなと思えるようになった。 本当に年取るまで生きなきゃならんのだ。ということの重大さに、 実際年を取るほど気付かされる。 若い頃は「はー疲れた、私ももう、いい歳じゃから」なんて気軽に言えたが、 実際その「もう、いい歳」な世界に片足をつっこみだすと 「これは!もっと若々しく楽しく生きとかなきゃ」とリアルに思うようになる。 大人の時間は子供の時間よりずーっと長いことは昔から知っていたけれど、 “その長い大人の時間を楽しもう”っていう発想は微塵も無かった。 大人はもっと辛くて、もっと苦しくて、もっと時間がないんだと思ってた。 あと、ものごとを楽しむのは怠けることで、軽い罪だと思っていた。 だからこの先、私はもっともっと若くなっていくだろう。 生きるほどに若さの重要性を身をもって知るのだろう。 「何歳の時に九九を覚えて、何歳くらいで結婚して、 何歳くらいまでに家を買う」っていうような世間的パターンに 当てはまるつもりは勿論ないことと同じで、 「若い時代」や「子供の時代」「老人の時間」はいつ訪れてもいいと思う。 私はその順番が普通の人と違う。 全然かまわないことなんだけど、しいていえば問題がある。 鍛えるべき時期に体を鍛えなかったせいか、やはりバイタリティ不足。 ……あー、一日じゅう野原を駆け回っても 疲れないくらいの体力が欲しくなってきたぞー。 |