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涙目狂詩曲
2003年08月08日(金)

最近日記を書いてなかった。
な〜〜〜んでか?(堺すすむ師匠っぽく)
それはね、PCのモニターをなるべく見つめないようにって言われてるのよ。
誰に?目医者さんに。
「前に、ドライアイって診断されてるんだよね。
 ま〜前といっても○年前だけど、
 普段から涙が少ないってことかもしれないから。」

そう、あれは高校の時。
頭痛の原因がなにかを探るために、
あらゆる検査を受けまくっていた時期だ。
で、検査を受けまくっては「あんた、不健康なだけで病気じゃないね」
みたいな感じのリアクションをされていた時期だ。
血を調べたら貧血と言われ、
目を調べたらドライアイと言われ、
血も涙も控えめ(無いわけじゃないけど)な女であることが
科学的に判明したんであった。

でもまさか、「ドライアイの検査」が
あんなシンプルなものだとは。
目に試験紙を挟んで、ただひたすらじっと待つ。
で、涙が染みだした量を目盛りではかるって。
思いのほかローテクでびっくりしたっけ。

ドライアイ風味なうえに、
目がちょっと炎症を起こしている。んだそうだ。
炎症って言葉、なんか怖い。
火、を連想するからだ。
しかも、眼球にって。
眼球に火って。
星飛遊馬か、わしゃ。

ああ、夜になると目が疲れてきてしまう。
ついでに、(ついでに?)明日は大変だ。明後日も大変だ。
だから力を蓄えたい。
元気に動きたい。気持ちよい忙しさ、を感じたい。

就職活動、のことをよく考える。どうにも憂鬱な感じだが、
どうせ同じ道のりなら、楽しんだもの勝ちだ。
楽しそうな人、っていいものだ。確かに。

誰にでも、「自分が楽しめる瞬間」や
「自分が楽しめそうなこと」の大まかなイメージはあるけど、
でもそれが、「ひとりよがり」になってしまいそうで怖くて、
つい縮こまってしまうのだ。
自信がないなー私、と思ってしまうのだ。
そんな風に、その「客観視」したつもりの映像を見つめてばかりいると
自信って何?私って何?という疑問さえ生まれてしまう。
問題がどんどん抽象的になっていって、目の前のことがおろそかになる。
その疑問を持つことに意味がないわけではないけど、
それでチャンスを逃しているとしたらすごくもったいない。
とりあえず実行してみて、壁にぶつかることを恐れないことかなあ。
ぶつかったらぶつかったで、また何か別のことを実行すればいいんであり。

社会の中で楽しそうに暮らすには、
要領のよさであったり実行力であったり判断力であったりが必要で、
楽しそうに見える人というのもきっと、意識的ないし無意識的に、
いろいろな工夫を経ながら、めげずに暮らす粘りを持って
生きているのだろう。
人間なんだからそれなりに課題や苦労はあるはずだ。
でも、楽しそう。っていいな。

体力が無かった時期は、病気さえ治ればそれでいいと思っていたが、
もっと重い病気でももっと強い人はたくさんいる。
そういう人に対して情けない。
別に健康が正解とは限らないのだ。
実際、そんな謙虚な贅沢に納得している自分ではない気がしてきた。
健康で安全な生活を望むことは、謙虚だけど贅沢だ。
私は謙虚じゃなくて目立ちたがりだし、
贅沢したいとも、そんなには思わない。

もっと伝え方、捉え方を学ぶ必要があるんだろうなあ。
売れる商品を企画してヒットを飛ばすことも、
感動的な映画を作って観衆を泣かせることも、
要するに「共感」したくてやってることなのだ。
未熟な上に、めんどくさいと思ったりもするが、くすぶるのは嫌だ。

その時その時の状況の中で一生懸命であれば、
そのうちなにかいいことがあるような気がする。
こんな風に気がするだけのことって多いんだが、
何も確証がない世の中では実は誰しも、
気がする、のレンズの内で生きているのかもしれない。
って気がする。