蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2015年03月18日(水) 暮らしたこともないのに

今頃2月のはなし。

公開初日にひとりで映画『リトル・フォレスト 冬・春編』を観に行ったのはポスターの橋本愛が誰かに似ているという思いこみからだったのだけれど、観たら観たで、東北の山あいの集落にどっぷりとハマってしまった。深い緑の針葉樹林と真っ白な雪原、吹けば飛びそうな平屋建ての家、頼りない電線、空、雲、薪ストーブの火、鍋の湯気、煙突の煙、人の息、声、足跡。

映画館からの帰り道、スクリーンに映った情景を思い起こしながら、確かめたいことがいくつも浮かんできて、原作ではどうだったんだろうとその日のうちに五十嵐大介著『リトル・フォレスト』(全2巻)を買った。

なぜ母は失踪したのか、なぜ父の不在に触れないのか、小森は誰の故郷なのか、小森にはいつから住んでいるのか、小森に住んだときから父はいなかったのか、母は今どこで何をしているのか(これについては手紙で少しだけ触れていた)、なぜいち子は都会に出たのか、今は自給自足しているけれど、電気代やガス代払うにはお金がいるだろうし、農作業の機械の燃料とか種とか肥料とかも買わなきゃならないだろうし、現金収入はどうしているのか(期間限定のアルバイトはしていたね)、とかとか。いち子の生活全体を想像すると、わからないことだらけだった。

何か手掛かりがあるかもしれないと期待して、前のめりになって原作を読んだけれど、そこには映画以上のことは何も書かれていなかった。つまり、映画は原作に忠実だったということだ。映画化に際してわかりやすくしようと、親切な仮定を並べたり、こっちを切ってそっちに付け替えたり、ありていにすき間を埋めたりしなかった。わからないものはわからないままだった。

そういうことか。

原作を読み終えて、いよいよ昨夏に見逃した(というより全く気づいていなかった)『夏・秋編』を見る必要があると思い、DVDを買った。まんまと術中にはめられたかと一瞬頭をよぎったけれど、無視できない何かがあるのだから仕方ない。届いてから通しで1回見た後、しばらくの間、細切れに毎日見続けた。短い話の連続だから、迷子にはならない。見れば見るほど静かな映画の世界に夢中になった。

どうしたって惹きつけられてしまう一番の理由は、人がパラリパラリと住む山あいの風景に、暮らしたこともないくせに懐かしさを感じるからだ。そして、橋本愛の逞しく演じる様が、そのことを補強している。何度考え直してもそうとしか感じられなかった。懐かしさの一端は、私の父が亡くなる前のほんの数年間、山暮らしをしていてそれを少し手伝っていたせいもあるのかもしれない。刈っても刈っても生えてくる雑草とか全くその通りで、微笑ましいったらない。

私自身は、都会と田舎が半分ずつで構成されている、と思っている。田舎育ちに誇りを持っている人に言わせれば、そんなの田舎のうちに入らないよ、と一蹴される地方都市で、野猿のように遊びまわって真っ黒に日焼けしていた。一方、都会育ちに誇りを持った人に言わせれば、そんなの一緒にしてほしくないよ、と拒絶されそうなこれまた別の地方都市で、習い事に明け暮れてもいた。つまり、どっちつかずなのだ。どちらからも仲間に入れてもらえない。拠りどころがないことほど、さびしいことはない。

それはさておき。

映画ではいち子の作る料理、出てくる食べ物にも胃袋をつかまれた。そのうち、甘酒には相当のめりこみ、以来、週1、2回は作っては毎日欠かさず飲んでいる。米と米こうじからおいしい甘酒ができるまで、試行錯誤を繰り返し、料理というよりは実験のようだった。今はほぼ完成形に近い甘酒を作ることができるようになった。甘酒の話はまた今度、甘酒のことだけ書きたい。

映画『リトル・フォレスト』は夏・秋・冬・春の4部構成で、その中でもたぶん「冬編」が最も心に沁みこんだ。それを再確認するために、そのうちまた『冬・春編』のDVDが出れば、いそいそと買って飽きるほど再生するだろう。


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