我が母はとても勝気な人である。 父はおろか子供たちも閉口する。
母は、私と違った青春時代を過ごした人間である。 今で言えば、毎週末にはライブハウスに通ってダイブするタイプといえよう。 もしかしたら、ゴスロリ系かもしれない。
勝気な分、勉強はそこそこ出来たらしい。問題ができないと馬鹿にされると思うと、くやしいのだそうだ。過去の私にしか実感できない話である。
そして、彼女は映画が好きだったらしい。 一人暮らしをするまで、映画は地上波で見るのが当たり前だった私とは大違いだ。 「風と共に去りぬ」「嵐が丘」「ドクトル・ジバコ」などは何度も見たという。 私が何度も映画館で見た映画など一つも無い。まあ、今はレンタルビデオという物があるから、母だって今ならビデオで見ているのかもしれないが。
母は映画だけじゃ物足りないタイプだったらしい。 下準備として原作を読み、映画を見てはまた原作を読むタイプだったそうだ。 この辺りは今も昔も変わらぬようで、いわゆる海外文学など読むと「スカしてる」と笑われたらしい。
でも母は読んだ。勝気な人であるから、自分が読みたいものを読んで何が悪いと開き直るのだ。 ある意味迷惑な人でもある。
さて。私も授業中、○ードス島戦記だったかを読んでいて注意された事がある。いや、これは違うか。それは冗談として、私も中学時代、若き○ェルテルの悩みを読んで鬱々とするスポーツマンらしくないスポーツマンであり、クラスメイトには変わった人間だと遠巻きにされていた覚えがある。 ゲーテとミズノが共存しているのも、若さの特権であろうが。 そういった事もあった上に私は心弱い人間なので、そういった「文学」と呼ばれるものに手を出すのをやめてしまった。 ちなみにその頃の感覚で言えば、古典SFも文学だったので、全く読んだ事がなかった。どうでもいいことだが。
母とは違う。
田舎の悪いところだ。 海外文学や純文学を読んでいると、お高くとまってるように見えるのだろうか。
さらに高校時代には決定的な出来事があった。 確か学期末試験が終わった直後だったかと思うのだが、高校一年の初夏の頃、一人学内図書館に赴いたことがある。TRPGなどを知った頃なので興味があり、中世ヨーロッパの本をなんとなく手に取った。側の机で読んでいると、管理している先生がいつの間にやら側にやってきていた。 曰く「勉強もしないで随分余裕ね」と。 周りを見渡すと、沢山あるテーブルは試験が終わった為か三つほどしか使用されていない。だが皆が皆、勉強していた。 私は急いで本を棚に戻して逃げ出した。そして進学校の図書館は、自習にしか使ってはいけないのだと私は理解した。 今思えば、全く理不尽な出来事である。
ついで言えば、大学の二年になるまで五年間、図書館で本を読むという事ができなくなった。誰かがイヤミを言ってきたり、遠くから鼻で笑っているような気がしたからである。 今思えば、その頃から軽い対人恐怖症の気があったのだが、それはまた別の機会に話そう。
そんなこんなで、私は他人に誇れるほど「文学」には触れていない。 母は普段どうしようもなくマヌケな発言をするが、「文学」を知る人間でもある。
環境が違うというのは、システムが違うとも考えられる。 システムが違うなら、それにあわせたソフトを用意するべきだろう。 学校図書館に参考書以外の本を置かなければいい。 っていうか、置くな。私のような、小心者だけど一大決心をして図書館に足を運んだ人間が誤解する。
そして、あの時のベテラン司書教諭に訊ねたい。 触れられない本に、読まれない「文学」に、一体いかほどの価値があろうか。
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