歯医者の帰り道、本屋に立ち寄ってみた。 地元にしては大きな本屋で、駐車場も広い。高校以来の一番なじみであり地元一の品揃えを誇る本屋は別にあるのだけど、車の置き場に困るので最近は利用していない。駐車場はあるのにはあるのだけど、入れるにも出るにも四苦八苦する場所ではどうしようもない。学校帰りに覗いては立ち読みしていた生活が懐かしい。音楽雑誌を食い入るように読んでいて、隣りに立った人達に自分の好きなバンドがばれてしまうんじゃないかと戦々恐々としていた日々などが。 子供っぽいけど、それが私の世界の一部だったのは間違いない。
足りるを知れというのは常日頃から自分の頭のどこかにある言葉であり、そしてそれを実感しきれていないところに自分の問題があるのだが、東京の巨大本屋や神保町の、郷愁と寂寞感を足して割った雑踏と背表紙の洪水、そしてその中にすら見つけられない読みたい本の数々を思い出してため息が出る。
そして、件の店へ入ってみる。 田舎町は異端者に冷たい。ライトノベルコーナーには立てない。ライトノベルを「書く為に読む」人間がいるとは考えない。だからこっそり目でさがす。 コバルトとスニーカーが多め。電撃は数えるほどしかない。徳間デュエルなどはどこにあったのかわからない。 私が大学に入った後、某キャラクターグッツを扱うチェーン店がオープンしたおかげで、ライトノベル関連はその店に隔離されているようだ。 だが、私にはその勇気が無い。 そのお店には、大きな駐車場を30mほど徒歩で横切らなければならない。残念だが、高校生に交じってまで買いに行く人格は持ち合わせていない。 どうしても欲しければ、ネットで買えばいいわけだし。
ライトノベルの購入には見切りをつけて、新書コーナーに向かう。 眩しい。 なんだか異様なほど雑多な色の集団がひしめいている棚がある。 おそるおそる、その隣りの中公新書をチェックしながら横目で確認。
講談社現代新書。
なんと。あの黄色がかったベージュ色ではなくなっていたのか。あれはあれで、どこか優しげ=どこか子供っぽい語り口=入門編に最適シリーズといった模様だったのだが。 どうやら分野ごとにイメージカラーがあり、それによってつながりのある本がすぐ見つかるようにした模様。
だが、痛い。目が痛い。ムスカもびっくりである。 特に自分がチラホラ物欲しげな目で立ち読みしてはどうすればいいのかわからなくなる「文章修行系」である本。
蛍光水色と白は痛い。目が痛い。宮崎版モリアーティもあんぐり。
岩波の子度向けムックだかワイド版並に派手。いや、岩波ワイドは薄いし押さえ目の色調のものが多かったからまだ我慢できたけど、そこそこ厚みがある上に蛍光色とは。 一緒に買った集英社新書のなんと大人びたたたずまいだろう。 ちなみに私は、装丁だけに絞ってあげれば新書は岩波新書(緑)、文庫は講談社学術文庫、ライトノベル系は電撃が好きである。
内容を取り上げれば、講談社学術文庫と平凡社ライブラリー周辺がとても好きだったりする。
恐ろしいことに、現実がフィクションを凌駕して面白いという事が往々にしてあるのだ。
現実を理解しようとする過去の妄想と執念は、自分もその同類だという脅迫観念を私に植え付けながらも魅了してやまない。 結局私は、その眩しい水色の新書を手にし、私なりの現実を形にする糧とするべくレジに向かったわけだ。
後悔しなければいいなと思う。
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