囚はれのシネマ日記
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4日、「未来」のふたりの中年男性の童貞歌集の合同批評会へ。 『海境』の角田純さんは愛媛県から『抒情装置』の資延英樹さんは神戸から、きつとそれぞれ朝早く(昨夜はまんぢりともせずに)ゐらしたことでせう。 出版クラブ快感(会館の変換ミス・イキ)を二階に上がるとカクさん・スケさんがお揃ひで立つてゐて出席者を挨拶で迎へる、それがとても謙虚でありまた騎士的で素敵な印象だつた。 パネリストの高橋睦郎さんは多くは語らなかつたけれど私にはとても心に沁みることを仰つた。 旧約聖書の言葉からの引用でメモはとらなかつたが、かいつまんで言へば「感動がないときには歌はない」といふことだつたと思ふ。 逆に言へば感動もないのに歌ふといふおかしな現象がなんとはびこつてゐるのだらう!といふことだ。 しかし例外的な歌人として「感動未満を擬似感動として歌つた」のが塚本邦雄、「感動未満を感動未満として歌ふ」のが岡井隆である。 しかしこのいづれの方法もとてつもない強力がいるのであつて、ふつうの人には真似できない(あるいは真似すべからず)。 高橋さんはおおむねそのやうなことを端的に仰つたと思ふ。 そのとき私が思つたのは毎月の結社誌にびつしりと並ぶ短歌およびインターネットに氾濫する短歌のことだ。 そしてつぎつぎと生産される自費出版歌集のことだ。 そして角田さんと資延さんと私を含むその他の大勢の歌集のことだ。 その人たちの中から明日の塚本・岡井が生まれることはほぼないだらう。 でも明日の塚本・岡井を夢見ることは誰にも止められない(あるいはどーにも止まらない)。 短歌といふものはほんの一握りの才能を膨大なアマチュア歌人が消費者として支へてゐるのだと思ふ。 なんだか侘しく悲しいけれど。 だから私は思ふ、愚かしい表現者であるよりも賢い鑑賞者でありたい、と。
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