囚はれのシネマ日記
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2005年04月20日(水) めざめ

おどろくべき映画だつた。
闘牛を題材にした作品なのでなにげなくDVD『めざめ』を借りて観た。
去年の6月マドリッドではじめて闘牛を見て、その血なまぐさい見世物はわたしの心の琴線にふれた。
(あれはソル・イ・ソンブラ席ではなくソンブラ席だつた。)
その成果はグロテスクでありながらなんともロマンティックな仕上がり!
これは闘牛そのものにも、この映画についても言へる。
矛盾するふたつの要素がみごと鮮烈に映像化、スペクタクル化されてゐる。

映画の話は闘牛から始まる。
牛の角で深手を負つた若きマタドールと殺された五歳の雄牛ロメロ。
マタドールは一命を取りとめ殺された雄牛は解体される。
どちらも大いなるものへのささげものなのだ。
解体された雄牛ロメロの部位はそれぞれしかるべき所へ送られる。
ツノは剥製製作者へ、骨は犬の餌としてある家庭へ、目玉は目玉の病理学者へ、肉はレストランへ。
そのレストランのある街は北フランスのリール。
この街の名に聞き覚へがあるのは、ギャスパー・ノエの『カルネ』の舞台がやはりリールであり、主人公は肉屋であり、こちらは牛のかはりの馬の解体シーンがあつたことを思ひ出したからだ。
してみると北フランス、リールの町は解体業や肉屋が多い街なのではないだらうか(どうでもいいことなれど)?
ともかく牛の解体シーンは短くもすさまじく燃え、監督がふたりの子を持つうら若い女性であることの必然さへ感じてしまつた。
さう、これは血まみれの肉体経験をものともしない感受性なのだし、闘牛といふ儀式によつて培われた堂々たる文化なのだ。
監督デルフィーヌ・グレーズは第二のフランソワ・オゾンと呼ばれてゐるらしいが、わたしには『8人の女たち』を撮つたオゾンをはるかに超えてゐるとすら思へた。

さて、この映画はその解体された雄牛の運命を縦糸に、その雄牛の体の一部を賜つたそれぞれの登場人物の物語を横糸に織り成される。
しかしその雄牛の一部を賜つた登場人物たちもまた、それぞれに深手を負ひつつ生きてゐる。
それぞれの役柄がイカれてゐると言へば言へるし、よくもこう気味の悪い役者たちばかり集めてきたものだと感心もする。
しかし映画的快楽といふものはもともとさうしたもの。
この悪夢のやうな、または佳き夢のやうな他人の人生をひととき生きるといふことではないだらうか。
その妙な登場人物たちが生贄の牛の体の一部を賜つたことによつて、なんとなくその生を肯定される、そんな感じなのだ。
いや、もしかしたら肯定も否定もされてないのかも。

牛の骨を齧つた犬が死ぬのは狂牛病のためだと思ふし、毛の生えた牛の目玉を転がして遊ぶのはバタイユの『眼球譚』みたいだし、その片方の目玉が失明してゐたなんてマタドールもびつくりな真実だらう。
このうら若い女性監督は見物人をびつくりさせることにおいて天下一品だ。

公式サイトはこちら。さらにおそるべきものはこの美少女の演技なり。


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