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何故か、ふと。 私が“希”を名乗る様になってからもう4年半が経つのだなぁ…と。
苗字に当る部分は後から付随して考えたものだったし、 それも途中で変わっているので全く別物なのですが、 “希”という名前は当初想像もしていなかったほど 自分の一部になったな…という想いを、最近改めて感じています。
そもそも“希”という名は、ある人のweb小説にゲスト出演させて もらうという企画で、当然本名では困るし、その時のハンドルは およそ日本人的名前ではなかったので、それ用に新たに考える事 となった名前なのでした。
別に何でも良かったんですけれどね、でも自分自身というものを鑑みて、 ある何かを一縷の可能性に賭けて希求する…というその時の生き方を その小説のキャラクターにも込めてもらいたくて、 その時ネット上で、多分一番私の事を解っていると思える人に相談し 名付け親になってもらった、それがこの“希”という名前でした。
でまぁ、名前だけでは何なのでフルネームにしよう、 という事で、苗字はweb小説の作者さんと話し合って決めたのですが、 何の因果か小説には苗字しか出てこない…という結果になってしまったのでした。
実は一番思い入れがあって、一番こだわった名前が、 結局お蔵入りになってしまう…という事実は、随分と不本意なものでした。 それだから、その時から私は、この“希”という名前をあちこちで 名乗る様になりました。 そして、何かが動き出したのかもしれません。
あれから4年半。
“希”という名は、すっかり一人歩きをしています。 私の意志にかかわらず、否、まさに私の意志そのものとして希求を続け、 長らく追い求めて来た何かの、かなりの部分を確かに見つけたのです。 それはある種の解放であり、見つかる事で希求する目的も無くなったと 思われたのですが、それは違っていたようです。
自分の中のある部分に解決がついた時、“希”はまた新たな何かを求めて 動き出している、そんな気がします。
以前のハンドルを名乗る場所は、ごく一部になりました。 今では私の名前を“希”としか認識していない人の方が多いかもしれません。 以前の人達も、新たな環境では“希”と呼びます。
そして、実生活に於いてすら、本名の名前が呼ばれる回数より、 こちらの名前で呼ばれる回数の方が遥かに多いのです。 電話とかメッセとかオフとかは実生活に近いですし、 非ネットの他人はあまり「名前」を呼びませんから。
今、ある意味で本名より大きくなったかもしれない“希”という名前を、 感慨を伴って見つめなおす自分がいます。
今、私が希求するものは何なのだろう? これからの“希”は何を見つけるのだろう? いや、きっとまた大きなものを見つけるに違いない。
4年半という時間経過を、もうそんなに?と思った時、 ふと、そんな事を思い巡らせました。
改めて、名付けてくれた人に感謝しつつ、 あぁ、やっぱり一番解っておられたのだなぁ…とも思いつつ。
それにしてもよく考えると、その名付け親の人は、 未だに元のハンドルで呼ばはるなぁ…。 その関係性において、名前というものは一種の記号でしかないから… なのかもしれません。 #違ってたら言うてね>名付け親様
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京極を読み終わったら、ちょっとはお勉強が捗ってるような気がします。 別に京極堂の力…とかそんなんじゃなく、 要するにガーッと何かしっかり読みたかったのねぇ…と。
2日ほど、ほとんどの空き時間を読書に費やしてどっぷり浸って、 案外満足したのかもしれません。 いやホント、読書の禁断症状って、やっぱあるよ。
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