Experiences in UK
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2006年04月04日(火) 第138週 2006.3.27-4.3 昨年夏のスコットランド旅行3

(第八日:アバディーン〜ダンディー)
八日目の朝、インヴァネスから東へと進路をとり、途中でジャコバイトの反乱軍が殲滅された古戦場カロードン(ジャコバイト殲滅は1746年4月)などに立ち寄りつつ、スコットランド北東部の海岸沿いの町アバディーンを目指しました。
アバディーンは、日本と歴史上の縁がある町です。長崎グラバー邸でお馴染みの商人トマス・グラバーはアバディーン出身であり、グラバー氏の取りもちにより、幕末に薩長両藩から何人かの日本人がアバディーンの地を踏んでいるそうです。有名なところでは、長州藩の井上聞多(後の井上馨)と伊藤俊輔(後の伊藤博文)のコンビがアバディーンのグラバー家を訪ねています。

アバディーンで楽しみにしていたのが、ガイドブックに紹介されていた「英国でもっともおいしい」という評判のフィッシュ・アンド・チップスの店です。英国内には、私が知っているだけでも、「英国一うまいフィッシュ・アンド・チップスの店」は十軒くらいあるのですが、アバディーンのThe Ashvaleは数々の賞をもらっているというので、ちょっと信用できるかもしれないと期待をしていました。
果たしてどうだったか。いい線いっているのではないかというのが私の感想でした。
フィッシュ・アンド・チップスは英国を代表する単純なジャンク・フードですが、日本のお好み焼きなどと異なって、実はけっこう店によって品質の違いが大きいものです。The Ashvaleは、五段階評価するならば明らかにAかBのランクに入ると思いました。
店の雰囲気も開放的かつフレンドリーでした。広めの駐車場があり、店内に子供を遊ばせておける施設もありということで、家族で安心して入れる店でした。

この日の夜、ちょっと不思議な体験をしました。
宿舎としてスコットランド東海岸にある小都市ダンディー(Dandee)のB&Bを予約していたのですが、夜の8時半頃に疲れ果てて到着してみると、瀟洒な館から一人の女主人(老婆)が出てきて、「実は、申し訳ないけどうちのB&Bの部屋が都合悪くなったので、近くの別のB&Bを押さえたからそっちに泊まって欲しい」と言われました。「え?」と思ったものの、寝る場所があるのならいいかと安心しつつも、一抹の不安が頭をよぎりました。
我々が予約をしていたはずのそのB&Bは、外見は感じのいい建物なのですが、中に入ってよく見るとロビーの内壁の多くがはげ落ちていて、照明もやけに暗い感じでした。そして、背中をまるめて上目遣いにこちらを見上げる鷲鼻の老婆の他に人影が見当たらず、なにやら不気味な感じがしました。そんなこともあって、呆然と老婆の説明を聞いていたのですが、「うちで食事かお茶でもしてから行くか、それともすぐに別のB&Bに行くか?」と聞かれたので、これも事前に予約してあったはずの夕食をそのB&Bでとっていくことにしました。
案内されたロビー隣のダイニング・ルームは誰もいなくて真っ暗だったのですが、パチッと照明をともすと幼児用のハイ・チェアー一個含めて我々の分のテーブルだけがすでにセットされていました。我々は、老婆ご自慢のお手製スープから始まり、メイン・ディッシュとデザートまでの3コース料理を注文しました。食事を運び込んで来るたびに老婆は我々のテーブルの脇でくちゃくちゃとよく喋ります。60歳を超えた感じにみえる割には、えらく元気です。
子供相手に愛想よく遊んでくれたり、自分の身の上話を語りだしたりという感じで、1時間以上が経過したでしょうか。そろそろ移動しようという頃になって、体調がよくなかった妻がスープだけを飲んでメイン料理にほとんど手をつけなかったことに気づいた老婆は、宿に帰ってからおなかがすくといけないからというので、手早く手製のサンドイッチを作ってラップに包んで持ってきてくれました。
到着当初に我々が感じていた不気味な雰囲気とは対照的に、婆さんの言動は過剰なまでに親切だったわけですが、その極めつけとして、夕食が終わって婆さんが手配してくれたというB&Bに移動しようとした際に夕食代の支払いをしようとすると、「これはいいから」と頑として夕食代を受け取ろうとしませんでした。なんでこの婆さんにただ飯をご馳走にならないといけないのか意味がわからなかったのですが、結局押し切られてしまいました。
その後、車で5分程度の宿まで、婆さんは我々の車に同乗して案内してくれました。我々が新たなB&Bの部屋に入ったのを確認すると、午後11時近い時間だったのですが、ひとりとぼとぼと歩いて帰っていきました。
長い一日の終わりに居心地のいい部屋のベッドに腰掛けて一息ついた時、妻と私はまさに狐につままれたような気分でいっぱいでした。

この話には後日談があります。
当初の老婆の説明によると、我々の宿泊予約を受けて数日後に、上記のように不都合が生じたために別のB&Bに移ってほしいというメールを返したそうです。ところが、その頃には我々はすでにロンドンを離れていたため、そのメールに返信することが出来ず、そのために到着時まで連絡がつかなかったということでした。
しかし、ロンドンに帰ってからメール・チェックをしても、老婆が言うようなメールは入っていませんでした。結果的に何の問題もなかったばかりか、タダ飯までご馳走になったわけですが、ちょっと寒〜い感じのお話です。

(第九〜十日:スターリング)
スコットランド最終日の午前中、最後の訪問地として、スコットランドのほぼ中心に位置する町スターリングに立ち寄りました。
イングランドとの関係を軸にしたスコットランドの歴史を踏まえた場合、スターリング訪問はどうしても外せません。その理由は、映画「ブレイブ・ハート」に描かれたスコットランド独立をかけたイングランドとの激闘のストーリー(1300年前後)の主たる舞台がスターリング一帯だったからです。
古都スターリングの中心には、エディンバラ城さながらに岩山の上にそびえるスターリング城があります。スターリング城からは、はるかに広がる緑の平野と城下町、そして古戦場ともなったくねくね蛇行するフォース川の眺めを一望することができます。また、城から数百メートル先の位置にぬっと地面から突き出ている巨大な塔を遠く望むことができます。これは、「ブレイブ・ハート」の主人公でスコットランド随一の英雄ウィリアム・ウォレスの記念塔です。スターリング城とウォレス記念塔が向かい合っているというのが、なかなかドラマチックな光景です。
この日午後には、いよいよスコットランドを抜けて、イングランド側に南下しました。

十日目、イングランド北東部にある街ダーラムに立ち寄りました。ダーラムは、歴史と文化の香りがする、落ち着いた雰囲気の街でした(ブレア首相が幼少期を過ごしたのもダーラム)。街の中心には、世界遺産に登録されているダーラム大聖堂とダーラム城(現在はダーラム大学の学生寮)があります。ダーラム大聖堂は、質実剛健な印象がする古いタイプの建築様式の大聖堂でした。ダーラム大学は、オックスフォード、ケンブリッジに次いで三番目に古い大学らしいです。
街の中心には賑やかなマーケット広場があり、我々が訪れた日はフレンチ・マーケットが開かれていて、多くの人々が集まっていました。
ダーラム観光を終えてからノース・ヨークシャームーア国立公園を抜けて、車は一路ロンドンに向かい、我々の長い旅は終了しました。

(おまけの感想:スコットランド北部の田舎で存在感を示すEU)
ロンドンで暮らしていて英国がEU(欧州連合)の一員であることを実感することはまれです。日常生活のレベルで言うと、いまだに欧州単一通貨ユーロではなくてポンドが流通していることの影響が大きいでしょう(英国のユーロ参加は当分ないとみられる)。
メディアの論調や政治家の発言などからも、EUに対する批判的な見解や敵対的な意見がしばしば聞こえてきこそすれ、EUへの愛着や友好的なコメントはあまり聞こえてこないのが実状です。

そもそも英国と大陸欧州との歴史的な関係は、表面的にも実態的にもギクシャクしたものでした。ナポレオンやヒトラーに散々苦しめられた経験と、結果としてそれらの脅威を蹴散らしたというプライドが、英国人の対欧州深層心理には刻印されているのかもしれません。そのような心的傾向は、形を変えながらも現在まで続いているようにみえます。
英国はもちろんEU主要国の一つではありながら、いわゆる原加盟6カ国(フランス・西ドイツ・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリア)で発足したEUの淵源となる組織の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足して約20年も経ってから、ようやくEUの前身であるEC(欧州共同体)に入れてもらうことができたという経緯がありました。英国が大きく遅れてECに参加することになった事情は双方にあったようですが、その溝は表面的にも取り繕われることなく現在にいたっているようにみえます。

さらに、英国と米国の「特別な関係」は、濃淡の波はあったにせよ数世紀に渡って継続して存在しているものであり、英国が欧州にありながら欧州の一員として自他ともに認めにくくしている主因の一つになっていることは、疑う余地なしでしょう。昨年末、ロンドン郊外(うちの近所)のハンプトン・コート宮殿で、EU加盟25か国の首脳が一同に会するEU非公式首脳会議が開催されましたが(英国が議長国)、その前後でも、今後の欧州諸国が目指すべき経済社会モデルは英米型か大陸欧州型かというお決まりの論争がメディアを賑わしていました。
身近な一般ロンドン市民と話をした印象でも、EUは自分たちとは関係のないかなり遠い存在と捉えられているように思えます。

しかし、英国の地方に行くと、ロンドンではほとんど見かけないEUのマークをしばしば目にすることに新鮮な驚きを覚えます。
今回、スカイ島で我々が泊まったB&Bの近くに公共のキャンプ施設があったのですが、そこに翻っていた旗は三本あり、英国の国旗ユニオン・ジャックと青地に白い十字St. Andrew's Crossをデザインしたスコットランド国旗、それに青地に12個の環状の星を配したEU国旗でした。他の場所でもEU国旗を見かける機会が多々ありました。
そして、スコットランド本土の最北端へ向かう途上、海沿いを北上する国道で大規模な道路工事が行われていたのですが、道路わきの看板に目をやるとEU国旗のマークとともに「この道路工事資金はEUのファンドによって賄われている」という説明書きがありました。どうやらこれはEUの地域政策を支える構造基金によるインフラ整備工事のようでした。
こんな辺境の地でEUを実感するというのは奇妙に思えましたが、辺境の地であるからこそEUとの関係が密接だということなのでしょう。他方、人がほとんど住んでいないような場所でせっせとカネをつぎ込まないと存在感を示せないEUって何なんだろうという素朴な疑問も持ってしまいました。
後で調べてみると、スコットランドにはけっこうEUからの資金が流れているようでした。イングランドと大陸欧州(フランス)との確執のなかでつねに取り合いの的となってきたスコットランドという過去の構図が何となく想起されてきます。


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