女の世紀を旅する
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2007年07月08日(日) 哲学の原点: 人生とは自分探しの旅

哲学の原点: 人生とは自分探しの旅
                               


●森本哲郎 『はるか,自分への旅』(新潮文庫)




♪ 希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また汽車に乗る・・・
だけど、私が大人になった日に 黙って何処かへ 立ち去った あなた 
いつかあなたにまた会うまでは 私の旅は 終わりのない旅 ―― 


昔,「希望という名の,あなたを尋ねて...」という文句で始まる歌(岸洋子「希望」)があったが,人間の一生もとどのつまりはこの歌詞のような世界と同じではないか,と考えるのである。この歌には人間存在の哀愁が光っており,まさしく実存的なのだ。

 哲学は古来より現代まで首尾一貫して「人間は人生をどう生きたらよいのか」という課題を探求し続ける学問である。しかし,よく考えてみると,哲学というものは,素朴で単純な真理を難しい形而上学的な思弁的な言葉で飾っているだけで,本当に大事なのは人それぞれの生きた世界に対する真摯な心であり,自分という存在の本質を推察することではなかろうか,と思うのである。つまるところ,自分探しの旅。その謎に視点をすえれば,哲学ほどおもしろい学問はないといっても過言ではない。それにしても,自分という人間ほど不思議な存在はない。まさに,私の旅は「終わりのない旅」なのである。

 ある時は陽気で朗らかな愛想のよい自分が,またある時はとげとげしい,陰気くさい自分がいる。またある時は気前のいい寛大な自分が,またある時にはケチの固まりのようなストイックな自分がいる。。日々,変化する自分の心模様を察知するため,若い時分から自分の本質を探るべく努めてきたのだが,いまだに,自分の本性がわかっているつもりで,正直よくわからない。自分にとって,一番わかっているつもりの自分が,いまだに謎だらけなのである。でも,それが人間なのかもしれない。かつてアテネの市場で青年に「真・善・美 」を問い続けたソクラテスは「汝,自身を知れ」という有名な言葉を残した。生きる意味を知ろうとするには,まず自分自身を知ることだと彼は考えたのである。

 もっとも身近にありながら,もっとも遠いところにいる自分を探して,人は人生という旅を続けるのかもしれない。そういう「自分探し」に哲学的省察をめぐらしている作家の森本哲郎氏の言葉を以下に紹介しておきたい。哲学探求の本質を「 自分への存在」としている点に彼の実存のユニークさがある。

 ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■

《 この世の中で,いちばん不思議に思えるのは「自分」ではないでしょうか。なぜなら,自分にとって自分が何よりも理解しがたいからである。私はいつのまにか六十年以上の歳月を歩んできてしまいましたが,それでもまだ「自分」の正体がつかめません。もしかすると,私はついに「自分」をつかめないまま生涯を終えるのではないかと,そんな気さえします。

 私は逆説をもてあそぼうというのではありません。自分にとって自分ははっきりわかっている,とだれでもそう思っています。ところが,あらためて自分とは何なのだろうと考えはじめると,手にとるようにわかっているはずの自分が,とたんにするりと自分の中から抜け出てしまう。そこで,あわててつかまえようとすると,「自分」はさらに自分から離れてゆく。こうして,自分はなかなかつかまえられないのです。自分にとって最も身近な「自分」が,自分から最も遠い存在であるとは! これこそが,じつは人間そのものの逆説なのです。

 考えてみますと,「自分」とは影法師のようなものです。あるときは自分のうしろに「自分」が従っています。あるときは自分の前に「自分」が歩いている。そのように,影法師はいつも自分に寄り添いながら,しかし,けっして自分と一体になることはありません。自分で自分をつかまえようとすることは,自分の影法師を踏もうとするようなものです。踏もうとする影法師はさっと逃げてしまい,いくらすきをうかがって抜き打ちに踏もうとしても,絶対に自分の影は踏むことができません。

 人間はすぐれた知能によって,思いのままに世界をつくってきました。自然を征服し,自然を利用し,そしてついに宇宙にまで手を伸ばしはじめました。にもかかわらず,人間が今後どれほど努力を重ねても,けっしてなし得ないことがあります。自分で自分を見るということです。こればっかりは,どんな顕微鏡をつくりだしても,どのような望遠鏡を考えだしても,絶対に不可能です。なぜなら,目は自分を見るようにつくられていないからです。

 カミュは,『シーシュポスの神話』の中で,こういっています。
「いつまでも,私は私自身に対して異邦人なのだ」と。

 それはどういうことなのでしょう。ひとたび「自分」というものを考え始めると,自分にとって「自分 」が,まるで異邦人のように思えてくるということです。どうして? 自分で自分を考えるとき,考えられた自分はすでに考えている自分とは別人になってしまうからです。いま,こうして考えている私は,考えられた「私」とは明らかにちがっています。たとえば,私は眠っている自分を考えることができます。しかし,そのようにして考えられた「眠っている自分」は,じっさいに眠っているときの自分とは,まったく別の自分ではありませんか。

 だから,「自分」とは,自分にとって「異邦人」なのです。カミュは「自分」を「異邦人」として追い求めた作家でした。自分という「城」の中には,つねに「異邦人」が住んでいるのです。

 そう考えると,自分というものは,かならずしも一人だとはいえないことになります。そう,自分とは何人もいるのです。何人も,何人も。

 私自身,自分を考えて,つくづくそう思います。私はいま,六十年にわたる自分のこれまでの人生を振り返って,少年時代の自分,青年期の自分が,まるで別人のように思えてなりません。いや,そんなむかしの自分どころか,ついきのうの自分でさえもが,まるで異邦人のように思われるのです。

 過去と同時に,未来の自分を思い描くとき,やがて死を迎えるであろう自分が,同じようにいまの自分とは別人のような気がします。それだから,人間は確実にやってくる死の恐怖に耐えられるのでしょう。もし,そうでなかったら,人間は過去の重みに押しつぶされ,未来の恐怖に打ちひしがれて,一日たりと生きてゆけないのではないでしょうか。自分が何人もいるからこそ,人間は何人もの「自分」を身代わりにして,自分に耐えることができるのだ,といっていいと思います。


 時間を停止するなどということがありえない以上,自分は刻々と変化しつづけます。時間の中に生きる人間は,つねに,彼ハ昨日ノ彼ナラズという宿命背負って人生という旅を続けねばなりません。そして,時間とともに自分からすり脱けてゆく「異邦人」としての「自分」を追いかけながら生きてゆくのです。この意味で,人生とは「自分への旅」なのです。

 テネシー・ウィリアムズは『やけたトタン屋根の上の猫』という戯曲の序文のなかで,人間はひとり残らず「自分」という独房に監禁されており,だから創作とは「生涯を独房に監禁された囚人が,同じ境遇の囚人に向かって,自己の監房から呼びかける悲鳴だ」といっています。

 デカルト(フランスの合理論哲学者)も,「自分」をさがしに旅に出ました。彼は何とかして納得できる「自分」を見つけたかったです。彼にとっては,何もかも疑わしく思われました。自分が存在しているということさえも。そのために彼は夢中で書物を読みあさったのですが,どんな本を読んでも,いや,読めば読むほど疑いはつのるばかりでした。

 そこで,青年デカルトは文字で書かれた書物のかわりに,「世間という大きな書物」を読もうと旅に出たのです。彼は自分で考え,自分で納得できるもの以外は何ひとつ認めまいと心に決めました。こうして彼の哲学の歩みが始まります。彼は自分にこういいきかせます。

――もし旅人が森の中で迷ったら,どうすべきか。途方に暮れて立ちすくでいては,永久に道は見つからないだろう。さればといって,やたらにあちこちをさまよい歩いても,いよいよ道に迷うばかりだ。迷ったときに必要なことは,とにかく一定の方角に向かってまっすぐに歩くこと以外にない。(『方法序説』)
 こうして,彼は一直線に「自分」へ向かってつき進んでゆきました。そして,「我思う,ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」というあの有名な原点へと達するのです。

 ハイデッカーは,人間を「死への存在」といいました。だれひとりとして死を免れることができないという人間の条件が実存哲学の原点なのです。しかし,私はそれよりも,人間を「自分への存在」と呼びたいような気がします。人間は生きているかぎり自分と向かい合い,自分と格闘しなければならないからです。

 人間はみな「私」として生まれ,「私」として世を去る。そして,そのあいだじゅうを「私」として生き続ける。影法師のように「自分」を引きずり,「自分」を追いかけながら,しかも,だれひとりとして「自分」の正体をこの目で見た者はいない。人間の不思議さはそこにあり,それだからこそ,「自分への旅」である人生は,それぞれの人にとって無限の意味を持ち得るのだと思うのです。》


カルメンチャキ |MAIL

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