観能雑感
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2003年12月12日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

銕仙会の納会は2番とも遠い曲で、見逃せないとチケット購入。
会場に到着後、コートを座席に置いて書店に袖本を買いに行く。先にいたお客さんが手間取っていたので待っていると、後から来た高齢の男性が「(先に)いいですか?」などと訊いてくる。いいわけながない。否の意思表示をすると不服そうに「じゃあどうぞ」と来る。何なのだ。やっと私の番だと思ったら、店の人は何故か後から来たこの男性を先にする。言葉を差し挟む余裕はなかったが、私の表情が一変したのをさすがに気付き、「お待たせしております」と申し訳無さそうに言うのだが、それは私がただ待たされている事に対して腹を立てているのだと思ったからであろう。訂正する気にもなれなくてそのまま会計を済ませる。
私としても小さなことに拘泥したくないが、仕事を終えてから会場に来るとどうしても開演まで間がない。トイレにも行きたいしで時間的余裕はない。待たされた挙句に後から来た人の会計が先という状況で、にこやかではいられなかった。
悪い事は重なるものである。席は中正面の最前列。同じ列の席は2つのみ。そのもうひとつの席に時間ぎりぎりになってやって来た人、これには本当に苦しめられた。最後に入浴したのはいつなのかと問いたくなるほどの濃厚な体臭を漂わせていたのである。劇場は人の集まるところなので体臭が気になった事がないではないが、今回ほど強烈なのは初めてだった。鼻と口を被った手を動かせない。腕は疲れるし、それでも容赦なく襲ってくる悪臭とで頭痛がしてきた。珍しい曲が揃った番組でなかったら、帰っていたであろう。1番目はすでに演能が始まっていたのでバッグを開けることは憚られ、そのまま耐えたが2番目はハンカチで鼻と口を被った。それでも完全に防げるわけはないのだけれど。他人の生活様式に口出しする気はないが、大勢の人が集まる密閉空間に来る時には考えてもらいたいものである。
このような状況だったので、舞台を楽しむには程遠く、ひたすら苦痛に耐える時間となった。無念。

観能日が隣接していたため、大分日数が経過してからの記述。

能 『仲光』
シテ 野村 四郎
ツレ 観世 銕之丞
子方 観世 淳夫、小早川 康充
ワキ 宝生 閑
アイ 小笠原 匡
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 柿原 崇志(高)
地頭 山本 順之

忠義と親としての愛情との間で苦悩し、自ら我が子を手にかける武士がシテという、能としては異色の作品。野村四郎師のシテは初見。
ツレの多田満仲はワキ座で鬘桶に着席。アイの太刀持ちは地謡前へ。
子方2名を先にシテ登場。幸寿丸役の小早川君は後見座へ。稚児袴姿。美女御前役の淳夫君は長絹、白大口、小結烏帽子。シテは掛直垂、侍烏帽子。四郎師、美女の行状を知っている為か、登場時から思い悩む風情を漂わせている。美女御前は父、満仲の要求に何一つ応えられず、満仲は我が子をその場で斬ろうとする。ツレは怒りの表情を見せ、止めに入った仲光を睨むが、シテは主君と目を合わせる事なはない。美女御前に逃げるように視線で合図するところはかなり芝居的。淳夫君、高音が擦れてしまうが、無理に高い声を出しているのだろうか。以前からその傾向はあったが、今日はそれが顕著だった。
美女は仲光に早く己を討つよう命じるが、仲光は躊躇する。せめて自分が同じくらいの歳だったら身代わりになるのにと嘆く父の言葉に、息子幸寿丸は自分がその役を果たすと進言する。直面の演技というのは大変難しいものだが、四郎師、露骨に表情に出すことなく内面の苦渋を滲ませる。父の苦悩を見兼ねたように自ら身代りになる旨告げる幸寿丸、幼い小早川君の高い声が、憐れさをさらに強調する。それぞれが自分を討てと背中を向けてならぶ中、刀を抜き放ち逡巡する仲光だが、その切先が向かったのは我が子幸寿丸であった。肩先に刀が触れるくらい近くに振り下ろすという直接的な動作。子方は倒れる型をする。アイの送り込みで美女は中入。あなたの命は他者の犠牲の上に成り立っているのだから、それを忘れず精進しなくてはならないと諭すアイの役は、『藤戸』のそれと重なる。哀しみを押し隠して主君に対面する場面は見ているこちらも息苦しさを感じるほど。せめて我が子の菩提を弔いたいと望んだ出家は許されない。そこへ恵心僧都に伴われて再び美女丸登場。僧都から真相を明かされ、なぜ自分も死ななかったのかと満仲は美女を責める。父の前で平伏する美女には怖れと身の置き所のなさが滲む。僧都の取成しで満仲も納得し、仲光に祝いの舞を舞わせる。出はしっかりとした位で格調高く、段が進むごとに仲光の想いが少しづつ表出して来るようだった。途中、シテが橋掛りで膝をつき片シオリし、ツレは俯くところがあるが、清々しささえ覚えるほど非情な満仲なのだから、ここで下を向くのは石淵文栄氏の指摘のように不自然だと思う。内心は哀しくとも、満仲には平然と舞を眺めていてもらいたい。囃子も充実しており、哀しみを内に込め颯爽と舞うシテにはある種の気高ささえ漂った。橋掛りで比叡山に帰る美女を見送る時には亡き子への想いも重なり、様々な感情に包まれるが、本舞台にいるツレを向く時は平静さを取り戻している。これは一曲を通して貫かれていたのだが、シテは主に対してはどんな時にも決して自らの感情を表さず、主が見ていないところでのみ哀しみを滲ませるのだ。そんな仲光だからこそ、美女を見送った後の、最後の双シオリが生きるのである。ここで彼は自らのやるせなさをやっと開放するのだった。
親の過剰な期待を重荷に感じる子供というのは現代の親子関係で大きな問題になっており、そこが筋上の焦点ではないものの、興味深かった。現代では理解できない展開であることが強調される本作であるが、演者の好演に支えられ、見応えのあるものとなった。特にシテの四郎師は内包した哀しみを能の品位を保って体現しており、見事であった。

狂言 『太子手鉾』(和泉流)
シテ 野村 与十郎
アド 山下 浩一郎

主人に内緒で京見物に行った太郎冠者。出仕が遅れたのを責められ、雨漏りを直していたのだと言い訳する。主人から太子の手鉾を持っていると聞いているが、それを見せろと言われ、物部守屋征伐にかけて竹の先に槍をくくりつけたもので天上の雨漏りしている個所を刺す。
悪臭の根源である隣席の人物が退席したため、気が抜けたのか、終始うとうとしてしまった。山下師、声量があって、居住まいも正しいのだが、役よりも己が生々しく表出してしまったとでも言おうか。作品自体はやや冗漫な気がした。遠い曲なので機会はないかもしれないが、もう一度もっと状態がいい時に観直したい。


能 『現在七面』
シテ 浅井 文義
ワキ 村瀬 純
ワキツレ 村瀬 提、中村 弘
アイ 野村 万禄
笛 内潟 慶三(森) 小鼓 森澤 勇司(清) 大鼓 安福 光雄(高) 太鼓 助川 治(観)
地頭 浅見 真州

後シテは装束を二重に着込み、龍女から天女に変身するという大変珍しい曲。観る機会はほとんどないと言っても良いのではなかろうか。
身延山で修行中の日蓮上人のところへ毎日花水を手向けに来る女性がいる。素性を問うと法華の功徳にあずかりたい近隣の者だと言う。以下、法華経による女人成仏について語られ、女は実は七面の池に住む竜女だと告げ、本性を見せようと言い残し消える。上人の読誦の中、大蛇が現れるが、上人の言葉に道引かれ、天女に変じ神楽を舞い、天界へ赴く。
前場は殆どが難解な仏教用語で占められ、あまり面白みはない。要は法華経賛美である。シテは曲見をかけ、若い女性でないのが興味深い。アイの万禄師は相変らず力みだけが見える。
出端で登場した後シテの面は真蛇、鱗箔の縫箔に長袴、討ち杖を持つ。面を重ねているので視界は通常よりさらに狭いのだろうか。声がこもるためか、この状態でのシテ謡はない。早変りと言っても歌舞伎のように鮮やかではないが、後見以外に2名が作り物の引き回しに使用しているような布でシテを囲み、即席更衣室を作る。変身時間は3分弱といったところか。先程まで恐ろしげな龍女だったのが、増をかけた美女に変わっているのを見るとやはり驚く。神楽は笛のリズムが安定せず、呪術的な陶酔感をもたらすには至らなかった。
内容的にはあまり面白くなく、そうそう何度も観たい曲ではない。

帰宅してからも悪臭がどこからか漂ってくるような気がして入浴するまで落ち着かなかった。野村四郎師の見事な直面があの臭いとともに想起されて哀しくなった。この日は仕事上理不尽な目に遭い(思えばこの1週間全体がそうであった)、せめて舞台は楽しもうと思ってやって来たのだが、そうはならなかった。演能そのものは見応えがあったので余計に残念である。まあ、生きているとこうい目に遭うことは、一度ならずあるものだ


こぎつね丸