観能雑感
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2003年06月22日(日) 喜多流職分会6月自主公演

喜多流職分会6月自主公演 喜多能楽堂 AM11:45〜

チケット発売日、電話をかけると早口の男性の声で「……クドウです」と応答される。これは間違ったかと詫び、受話器がフックにかかる瞬間「キタノウガクドウ」と言った事に思い当たる。早いのとやや不明瞭なのとで聞き取れなかった。細胞のひとつひとつに至るまで小心なので、しばし時をおいてからかけ直す。今度は受付にいるいつもの女性だった。
チケットが郵送されたのはいいが、なぜか番組が同封されていない。問い合わせてみようかとも思ったが、新たに郵送料を払わせるのも気が引けたので、HP上で確認するに留める。
当日、会場に着いたのは整理券配布開始の約15分前。良い席でなくとも座れればいいと思っており、長時間屋外に立って待つのも考え物だったので、この時間。並んでいるだろうとは予想していたが、列は入り口から階段を越え、能楽堂の敷地内を通り、隣の杉野学園体育館にまで伸びていた。日差しが強く、面倒でも日傘を持ってくれば良かったと少々悔やむ。続々と楽屋入りする玄人を横目に、なんで暑い中出演者よりも早く来て外で立って待たねばならないのだと少々釈然としない気分。
10:30から会場入場順を示す番号札が配布される。134番。ロビーは文字通り寿司詰め状態。舞台を観る前に体力を消耗しつくしてしまうような気がする。
11:00に見所へ入場開始。今回は脇正面で観ようと思ったが、既に目ぼしい所は塞がっていて、中正面の目付柱正面という、競争率の低い場所に落ちつく。列の端で前方の視界が開けており、そう悪くはない。近くに三宅晶子氏の姿が見える。

仕舞
放下僧 内田 成信
杜若キリ 粟谷 浩之
鐘馗 粟谷 充雄

印象に残ったのは成信師。若いが身体がしっかりしてキレがある。地謡はやはり不揃い。

能 「通小町」
シテ 長田 驍
シテツレ 友枝 雄人
ワキ 和泉 昭太郎
笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(高)
地頭 粟谷 幸雄

シテの長田師は14世喜多六平太師の下で内弟子修行をし、後に津に居を定めてからは東京での舞台は年に一度の定例会ぐらいのようで、こちらでの知名度は高くない。今回初見なので楽しみにしていた。
お調べは小鼓が最後まで調整。床几にかけてからも調べ緒を締めなおしていた。北村師は前に観た舞台でも同様だったので、道具が不調なのだろう。今年の人間国宝に認定。能楽界からはもう一人三川泉師がいるが、こちらが予想通りだったのに比べ意外。
ツレの雄人師、謡の調子が気にかかる。詰まったような声で安定感に欠け、聴いていてどうにも落ち付かない。身体も妙に無骨で女性というより女装した男性のように感じられる。
シテは掛合いを幕内にて行い、ロンギの後、衣を被かず登場。一気に間合いを詰める。衣を被いて徐々に近寄るのは橋掛りが長い舞台でないと映えないと思われ、橋掛りが短めな喜多能楽堂で敢えてそれをしなかったのには納得。気が付いたらすぐ後ろにいたような演出効果があった。小町の袖を捕らえて拍子を踏むその音ひとつひとつに深草少将の苛立ちと焦燥が込められているようで、これほど雄弁な足拍子は聴いた事がない。
長田師、小柄なのだがその身体には隙がなく、外に放出するより高い内圧を保っているかのように見える。そして上手く表現できないのだが、発する気が濃厚なのだ。都内在住の名の知れたシテ方に比べ、この方が年間に勤めるシテの数はかなり少ないと推測される。舞台が多いのは結構な事だが、その分一曲、一曲に懸ける想いというのは本人の意識しない所で稀薄になっているのではないか。先ごろ亡くなった宝生流の松本恵雄師が年間3、4番のシテしか勤めなかったという記述を合わせて思い起こした。
カマエ、ハコビはいかにも下掛りといった風で、重心が低く、足が舞台から離れないように見える程。立廻りの後笠を落し、暗闇の中手探りする所は哀れさが漂う。
残念だったのは後見が笠を渡すタイミングを誤り、常座でシテの進行妨害をしてしまったこと。進もうとするシテに対して後ずさりを繰り返し、口が詫びる形に動いたように見えた。シテを支える後見が集中力を妨げるような真似をするのは頂けなく、舞台上の動きとしても見苦しい。
終曲真際、正先で扇を掲げたとき、盃に月を受けたように見え、詞章上では唐突な感のある少将の成仏が、自然に納得できた。
じっとりと陰湿な少将ではなく、怒りを直接小町にぶつける強い少将像だった。
橋掛りを帰る際、シテとツレの身体の安定感が全く異なるのが露わになる。長田師、ニ場構成の曲でもっとじっくり観たいと思った。本日の能三番の内、最も印象的だったのが一番目。

狂言 「千鳥」(大蔵流)
シテ 大藏 彌太郎
アド 大藏 基誠
小アド 大藏 吉次郎

本曲を観るのは2回目。初めて観た山本家三兄弟が見事だったので、どうしてもそれを基準にしてしまう。狂言の音楽的側面が生きた面白い曲なので、やはり笑ってしまう。過剰な演出がなく、淡々と進行。いろんな家の芸があるから面白いのだと思う。

能 「飛鳥川」
シテ 狩野 了一
シテツレ 佐々木 多門、井上 真也
子方 狩野 祐一
ワキ 宝生 欣哉
笛 中谷 明(森) 小鼓 古賀 裕己(大) 大鼓 安福 光雄(高)
地頭 塩津 哲生

 『能楽ハンドブック』によると喜多流のみの現行曲になっているが、実際は金剛流にもある模様。詞章は国会図書館のサイトからダウンロード。内容は母子再会譚なのだが、この部分の結構が実に曖昧。子供とワキの男との関係は全く語られず、子供が何故親とはぐれたかも不明。狂女物のように母は子を探しに旅に出ることもなく、子連れの男を自分から呼びとめておきながらその存在に気付かず、終曲真際に子供から名乗りを上げる。古今集の「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる」という歌を背景に、田植えの様子に主眼が置かれている。
子方とともにワキ登場。長袴にもかかわらず、上体が安定していて本を載せて歩いても落ちないのではないかと思うほど。
シテ、シテツレ登場。皆片脱ぎで手には苗を入れた籠を持つ。ツレは小面、入紅唐織、シテは深井、無紅唐織の着流し。親とはぐれた子供を連れた上京の男が吉野に詣で、帰りに飛鳥川を渡ろうとすると、シテが違うところを渡れと呼びとめる。上記の歌の通り飛鳥川の流れが変わりやすい事と、それを踏まえて時は移ろい易いのだから、時期を逃さず田植えをしようと言い、実際にそれぞれが籠から3本の苗を出し、舞台前方に三角形状に並べる。
クセは舞グセ。ホトトギスは時を知る鳥であることから、縁語的に子供と離れ離れになった事が導き出され、探し廻ったが巡り会えなかった旨簡単に触れられる。詞章からすると子供は女の子のようだが、装束は通常の稚児袴姿。
中ノ舞の後田植えと絡めた名所が挙げられ、最後のロンギで母子再会。詞章を読んだ限りでは唐突な再開が、シテの招き扇とワキが子方をそっと押し出す所作で、再会劇としての格好がつくのは能の様式によるものか。
シテの狩野師、ツレは観た事があるが、シテは今回が初めて。謡も安定、所作も丁寧で柔らかな雰囲気。しっとりとした舞い振り。
舞台に置かれた苗が舞の最中にも倒れなかったのが不思議。さして安定感があるようにも見えなかったのだが。
謡曲中、稲作について触れたものは現行曲中はこれだけではないかと思われる。些事には拘泥せず、のどかな田園風景を楽しめばよいのかもしれない。
 予想どおり疲れが出て半覚醒状態だった部分も。

仕舞 鵜之段 塩津 哲生
松明に見立てた扇を自分の目でじっと見詰めているのが解る。これくらいなら仕舞の範疇なのだろうか。

能 「野守」
シテ 友枝 昭世
ワキ 宝生 閑
アイ 大藏 教義
笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 曽和 正博(幸) 大鼓 安福 健雄(高) 太鼓 金春 惣右衛門(春)
地頭 香川 靖嗣
野守の鏡は水でありまた鬼神の持つ鏡でもあるという説話に「はし鷹の野守の鏡得てしかな 思ひ思はずよそながら見ん」という歌を絡めた、単純なようで凝った作り。昭世師が切能を舞うことは稀であろうと思われるので観てみたいと思った。
ワキは葛城山で修行を目的に羽黒山を後にした山伏。春日野に出ていわく有り気な泉を発見、通りかかった老爺に言われを尋ねる。関師、久し振りに観るがやはりいい。謡の調子から山伏という感じを漂わせている。
シテは常座での名ノリグリからしばらくそのままで春日野の謂われを物語る。観世流の詞章を参考に持参したが、この部分はなかった。品良く憂いを帯びた尉振り。微妙な面使いで広い空間を意識させるのはさすが。
途中、昔語りをしていると涙がでるとシオルのだが、これは既に中世において忘れ去られて久しい野守という存在懐かしむ故だろうか。
シテが作り物の中に消えて間語り。決った事をやるのが精一杯という風だが、こういうのは見ていて決して不快ではない。
山伏の祈りに応じて後シテ登場。入紅モギドウに半切、赤頭に小癋見。手には鏡を持つ。塚の作り物と大鼓の間が非常に狭くてどうやって出てくるのだろうと気掛かりだったが、何の苦もなく通り抜けた。鬼神の姿を見た山伏が「恐い…」と告げると「じゃあ帰る」と塚の中に戻ろうとするのが妙に可愛い。解せないのは山伏がこの鬼神を調伏する態であること。明王に祈願し童子を呼び出し数珠を揉む。自分から呼び出しておいて随分な態度である。天界があるのならば地獄もまた必要なはず。決して忌避すべき存在ではないと思うのだが。
舞働きは緩急の付け方が見事で、作り物にぶつかりそうなほどの勢いで突進し、寸前にピタリと止まる。この鏡が天上界の最上層から地獄の有様、罪状や罰のことごとくを映し出す様を見せ、大地を踏み割って地獄に帰って行く。飛び安座をするのだが、全く構えた様子を見せずごく自然に軽々とやって見せた。
昭世師の舞台、いつも身体技能には感嘆するのだが、淡白で、心の奥底に届くような強烈な印象を受けたことがまだない。
地謡は本日3番中一番の出来。

すぐ後の補助席に座った高齢のご夫人の私語が耳についたが敢えて何もせず。どうして演能中に話したいのか理解しがたいが、美術館でひたすら話しまくる人も目にするので、こういう人はどこにでもいるのだなぁと思う。紙をがさがささせるのも、やめて欲しかった。携帯電話の被害もあり。

この能楽堂、鏡板の松は雄渾で、二階席から見ると前にせり出してくるような迫力があって素晴らしいのだが、舞台の照明が良くないのと、どこかで不要な共鳴をした音が耳障りに響くのが残念。演能中、ロビーから子供の騒ぐ声が聞こえてくるのも興ざめ。空調の音が大きいのも気になる。気にしている人は多いのだろうが、すぐに対処できる問題ではないので仕方ないのだろう。


こぎつね丸