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■ はやも見ぬ 月のかげ
窓の向こう、通りを行き交う車が曳く音で、雨が降り出したことに気付く。 澱のように沈んだ湿気は窓から忍び寄る冷気に押しやられ、部屋の奥へと吹きだまっていった。
「暑い……でも寒い」
木賃宿のベッドで何度も寝返りを打ちながら、エドはたまらずつぶやく。 歪んだドア、軋む床板、ひびの入ったまま修理もされない窓ガラス。 選ぶ宿はいつも示し合わせたようにみすぼらしい。たとえ二度目だったとしても記憶の端にさえのぼらない、無機質で特徴のない空間。
国家錬金術師に支給される莫大な研究費をもってすれば、連日5つ星ホテルでもお釣がくる。 しかし、あらゆる快適と引き換えにのしかかる好奇の視線が鬱陶しく、兄弟は敢えて宿帳も食事もない掃き溜めのような場所を選ぶのだった。
向かいの建物にある壊れかけたネオンサインはときどき思い出したように点滅し、うす汚れた床に赤や緑の影が生まれては消える。
「今夜は複雑な気温なんだね。やっぱり雨季のせいかな」
「さあてな……ああちきしょう、クソ目障りだな、あのオンボロネオン」
「真管をつぶしちゃえば止まるんじゃない? やってみようか」
アルは右腰に手をやり、チョークを取り出しかける。
「やめとけ、ややこしいことになると面倒だ」
「そだね」
ベッドに腰掛けていたアルはきしりかしりと音を立て、窓から外を見下ろす。 錆びが怖いからと昼間油をさしたにも関わらず、鎧はあちこちから悲鳴を上げた。
「霧雨だ……このままなら明日出発するのに問題ないよ、きっと」
寝るのをあきらめ、起き上がったエドは弟の傍らに寄り添う。
雨が降っている、ただそれだけのために。
雨が降る、ふたりの中に。 降りそそぎ、洗い流し、新しく目覚めさせてくれればいいのに。
「兄さん」
「なんだ」
「ボク、ずっと母さんのこと思い出していたんだ」
エドは顔を上げ、雨雲に遮られた月の軌跡を追う。 差し出した右手に、数えきれない光の粒がとまる。
「……オレもだよ」
雨が降る。 降りに降る。
還らぬ飛沫を掌に受け――雨は、降る。
2005年06月15日(水)
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