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| ◇◆◇ 2005年06月27日(月) ◆ |
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| ◆ 309−MR.002 ◇◆◇ |
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Q. 「ディカップリオォのー 出世作なら〜♪」 何が 思い浮かぶ...?
A. 「WHAT’S EATING GILBERT GRAPE」 この映画は ディカップリオォ も ジョニー・デップ も えがったょ。
この歌が 出来上がった 経緯には ある事件が 切欠にあった とのこと。 ちょうど ラジオで 流され始める 少し前の 出来事だった と 思う。
被害者・加害者 両者を含めた 事件の 当事者たちの 幼過ぎる 年齢とは 全く 反比例してしまうような 残酷さと 非情さに 非現実的なような... でも まさに 現代に溢れる事実を 象徴したような... そんな 違和感に 驚かされた 衝撃的な 事件だったという 記憶がある。
世間的にも 立場的にも もはや 子というより 親側としての 視線になり 自分の 遺伝子を 未来へと 繋いでゆく為の 資格を与えられた 櫻井氏が 唯一無二の 大事な 自分の子供が 関係してしまうかもしれない 可能性を オーバーラップ させて しまうのは 可笑しいこと では ないのだろう。
だけど ちょっと 意外な 視線だった。 この視線は 捉えられがちな 亡くなってしまった子の親のモノ というよりも どっちかっつぅと 加害者となってしまった子の親のモノ 寄りで 見られている。 って 気がする。
で おそらく 人としても 親としても 成長段階であろう 櫻井氏は 「かろうじて 出来ることは 相変わらず 性懲りもなく 愛すこと以外にない」 と 歌っている。 そう。 オレは 親じゃないし 上司経験も 少ないから わかんないんだけど 親と子とか 育てる育てられる という関係に 具体的な 解決策なんて ないんだ。 十人十色 臨機応変 試行錯誤 人それぞれ 失敗は成功の元。 要するに 想う とか 見守る とか 根本的なモノ。 それだけが 答え なんだ。
つまり 加害者が 子供 という 事件が 増えている 現代に 投げ掛ける為に 親の 子に対する 愛情不足とか 親の 在り方とか が 問われる中で 加害者の親が すべきだったんじゃないか って事を イメージしたけど 加害者だとか 被害者だとか という 区別ではなくって 基本的概念として 親は子に 人は人に 何を するべきなのか? それに 尽きるんだって 気付いたんじゃないだろうか。
ところで... これって 観てない人のために 言わない方が 良いのかな? ま 最後は ある理由で お母さんが 死んでしまうんですよ。 で その ある理由が 原因で 家族以外には 姿を 見せなくなってて 家の庭で 開催した 息子の 誕生パーティの 日でさえ 結局 家からは 出なかったような お母さんだったんだけど そんな 母を 心から 想っているが故の あの火葬なんですよ。 親子愛を 感じるのですよ。 ってことは やっぱ テーマ的にも ギルバート・グレイプであってんじゃね?
ってか 久々に なーーーげーーー。
そういえば 誰が為 なんだろう...?
我が為 だけ じゃない って ことなんだな...。
壱言――――― ただ ただ 抱き合って 肩叩き 抱き合って 手を 取って 抱き合って ただ ただ ただ ただ ただ ただ ただ た 抱き合って いこう
戦って 戦って 誰がため 戦って 戦って 誰 勝った? 誰がためだ? 誰がためだ? 誰がため 戦った?
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