探偵さんの日常
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| 2002年09月30日(月) |
国家犯罪 〜国際手配の女(4) |
彼女は、某国の情報部員だった。
国家情報部の上層部に命じられ、二重スパイとして綿密な作戦の下、他国に国家犯罪を犯させる。言うだけならば簡単だが、そんな熾烈な任務を課せられた彼女の気持ちを考えると、私は気安い慰めの言葉をかけるのもはばかられたし、彼女が行った任務についても聞くことはできなかった。
再び部屋に沈黙が訪れる。ただ、私は彼女がそれほどのスパイであるとは、思ってもみなかった。一般人と見分けがつかないくらいの超一流ということか。
と、そのとき、
「失礼します」と言いながら障子をスルスルと開けて仲居さんが入ってきた。
「おいしそう」
彼女がつぶやく。 仲居さんが、歴史の流れが止まったような重苦しい空気を打ち砕いた。そして、食事という本能的行為を媒体にして、私と彼女は短い時間ながらも互いにスパイとしての本分を忘れ、熱い時間を過ごした。。。すっかり打ち解けた私は、
「今夜は、このままここに泊まろうか?下手なホテルより、よっぽど安全だから。」
と言うと、
「最後の東京の夜だから、朝まで付き合って。」 と彼女は言う。まるで、襲われた ことなどすっかり忘れたように。身も心も、すっかり私に許してしまっているよう だ。
身支度を整え、「うら多」を後にした。
「日本の温泉に入ったことはある?」
と聞くと、「ない」との返事。早速電話をして宿を取る。湯河原の某所にある隠れ宿だ。温泉に入って、最後の夜を楽しんでもらおう。そう私は思っていた。彼女をガードするという任務を忘れたわけではなかったが、それよりも今は彼女を喜ばせてあげたいという気持ちのほうが大きくなっていた。自分だけのガードではここまで大胆に動くことはしなかったろう。むしろホテルにカンヅメにして、部屋の周りを部下に見張らせるほうがよほど安全だ。
ただ、このように派手に動くということは隙も増える。影でガードしてくれている警察官、そして隙あらば危害を加えようとしているどこかの機関のことを考えると少し気が重かったが、それでも私としては、彼女に日本でできるだけのもてなしをしようという思いのほうが強かった。どこかで私たちの動きを把握しているであろう依頼者、そして田園調布の男からも電話はかかってこない。好きにしていい、といったところか。
高速を200キロオーバーで走り、温泉宿に着く。主人が私たちを出迎えてくれた。お忍びで来る各界著名人のためにある宿なので、わがままがきく。私達は軽い食事を頼んでから離れに向かった。離れの一つ一つに大きな温泉がついており、プライベートは保たれ、部屋から温泉まで0秒という贅沢を味わうことができる。ただひとつ難点があるとすれば、私たち二人に残された時間はあと10時間弱しかないということだった。
彼女が温泉につかっている間、私は離れの外に出て不審者や不審物がないか調べた が、特に不審な点は見当たらなかった。外に出たついでに、依頼者に電話をかける。 電話には、あの田園調布の男が出た。
「特に異常はありません。今湯河原温泉におります。」
「そうですか。もうお気づきだと思いますが、われわれの精鋭が20人体制でガードしておりますので大丈夫です。そのまま、明日の昼までよろしくお願いします。ところで彼女の様子はどうですか?」
「すっかり落ち着いたようです。日本の温泉を堪能していると思います。」
彼女に関してのことは何も聞かなかった。電話が盗聴されているとも限らないし、それに聞いたところで答えることはないだろう。
部屋に戻ると、彼女はまだ温泉につかっていた。
「日本の温泉、初めてです。こんなに気持ちいいとは思わなかった−、あのぅ、一緒に入りませんか?」
簾の向こうから彼女の艶のある声が聞こえてきた。私は帳場に電話をして、軽食は1時間後に変更してほしい旨伝えた後、簾の向こうに入っていった。
離れについている温泉にしてはやたら広い。一度、肌を合わせた後はこうも女性は大胆になれるものであろうか。それからしばらく、彼女ははじめて、私は久々の温泉で、二人の疲れとストレスを洗い流した。
すっかり体も温まり、そしてお互いの現実から離れた桃源郷のような一瞬に酔っていた私たち二人は、内線電話の音で現実に引き戻された。
「そろそろお食事のほうをお持ちしてよろしいですか」
温泉でのぼせた体を冷やすには丁度よい、そばと少しの日本酒が運ばれてきた。二人ともすぐに平らげる。まだ夕食からそれほど長い時間もたっていなかったが、私たちはそれをすぐに平らげてしまった。少し酔ったのか、彼女は引いてあった布団に横になると、すやすや寝息を立てている。 寝顔を見ようとしたその瞬間、彼女の手が伸びてきて布団に引きずり込まれる−。
朝の温泉は心地よい。鳥や緑、自然と一体化しているような気分になれる。手間のかかった朝食を取った私たちは、いよいよ別れの地、羽田空港に向かうことにする。
「日本はいいところでした。食べ物も美味しいし、自然もすばらしい。そして、日本の人はやさしい。あなたもそう」
「そういっていただけると光栄です」
そんな会話をしながら、東京への道のりを疾走するキャデラック。24時間の間に起こった出会い、危機、愛、そして別れ。一夜限りの冒険とロマンスの時間は、シンデレラの12時の鐘と同じように、タイムリミットを迎えつつあった。
羽田空港に着く。私たちを出迎えたのは、田園調布の男と、いかにも屈強そうな男たち、そして初老の男。それぞれの正体をここに書くことはできないが、ここで私は彼女を引き渡し、任務終了。彼女は別れ際、私に振り向いてこういった。
「ありがとう。死んでもあなたのことは忘れません。愛してる。。。」
涙を浮かべ、寂しそうな顔で言った彼女の言葉だったが、私はなぜか、うなずく事しかできなかった。
彼らに連れられて、彼女は去っていった。
この事件以降、私はしばしば夢枕に彼女が立つことが多かった。短い時間に稀有な体験をしたせいか、私も彼女を好きになっていたのかもしれない。でも、その気持ちを振り切るかのように、私は次のスパイ稼業に没頭した。
彼女がなぜ、日本にいたのか、そしてなぜ政府の保護下にあったのか、その詳細をここに書き記すことはできないが、一つだけ間違いのないことがある。それは彼女が、「国家犯罪」の犠牲者であるということだ。それがスパイの任務とはいえ、彼女の国での処遇を思うと、私は切なく、悲しい気持ちでいっぱいになった。
しばらくして,私はテレビで彼女の姿を見た。もし,もう一度彼女に逢えたなら,あのとき彼女に 「愛している」という言葉が言えなかった自分を許して欲しいと言おうと思う。
おわり。
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