| 2023年01月26日(木) |
感性をつたえようとしたことがあるか |
ダンス。 おどりには、感性のものがある。
おどり=感性
これをおどりとするなら、娯楽とは決定的に違う。 それを楽しいと思うひともあるかもしれないが、 一般的な楽しさで言えば、 おおよそ見ていて(楽しい)ものじゃない。 しかし、楽しいとは異なる、 もっと深い、密度の濃い(何か)がある。 感性のおどりをおどる際は、 おどりを見ていてくれる人に、 その(何か)を発見してもらわなくては始まらない なにしろ説明できないものをおどっているのだ
度々、授業をしてくれと依頼がくる学校がある。 いつも1時間ではとても時間が足りない。 早巻きで進めてしまうと、 伝えたいことがどうしても曖昧になりかねない。 そうしないためには、 まずは何よりも面白いと思ってもらわなくちゃ。 自分が美香さんにおそわってきたのはこうだ。
小学生でもおどれるような簡単な踊りでも、 わたしたちは《おそろしく》おどれるでしょ?
ある種、これは明快なダンサーの資質だ。 投げかけられた声は今でも唸り響いています。 そう、そうだ、その通りだ おどり、おどりは、そういうものなんだ
わたしが与えられた時間内では、 おどりの《技術》は到底おしえられない。 そういうわけで、毎回。 創造力ともいうべき想像力にすべて振っています。
おどりを自分自身でクリエイトする
依頼が来るたびにおどりのことを再考します。 いつもいつでもその時に伝えたいおどりが、 今の自分には何なのか。 自分が勇気づけられてきた、その、
おどりの正体を
この断罪blogでも幾度となく記している。 すべてを伝えたい、そう思ったら、 言葉には代えられません。 感情や感性はことばに置き換えられない。 言葉ではまったく(足りない) どうにかして言葉にしようとすると 言葉ばかりが膨大に増えていって 結果、明快とは程遠い《説明》になってしまう。 精査すればするほど 言葉に(できない)(ならない) それでも伝えたい、受け渡したい、 そう思ったらおどるしかなかった! 笑笑 これは今でもおなじ。
ただ、考えて導き出るのは
《感性をつたえようとしたことがあるか》
例えば、、ボールがビュンと飛んできた。 その「ビュン」がどんなものだったのか。 例えば、、 自転車に初めて乗れた時のあの気持ち。 自転車の乗り方はおしえられても、 あの気持ちのほうはどうだ
ダンスでは、 おどりでは、
それができる。
相手に正しく伝わるかどうかは不明だが、 自分ではそのすべてをおどることができる。 わたし自身はこの(正しく)を、 努力してきたのを自負している。 おどりはどうしても一方通行になるために、 この一方通行の壁をどうにかできないか、 公演ではいつも挑戦している者だ。 感性は、自分で感じた感性は、 まず自分の中にしかない。 自分だけのものとも言えるので、 誰からも理解されないものかもしれない。 だから、ダンスは、おどりは、、
ツタエタイ勇気
これは、つたえたいものがあるおどりの ひとつの答えと言える。 おどりは決して自己中のものじゃない。 なぜなら《相手がいる》からです。 たとえ出どころが自己中なものだとしても 相手がいるのだから勝手なものは、、 決して踊れない。
どんな仕事も相手があるからこそ その仕事は丁寧になるはずですよね 仕事とはそういうもののはずだ
好きなことを好きなだけやっている、 と言えば聞こえはいいかもしれない。 だけど、やっていることはいつだって やりたいことはいつだって 片足が崖から落ちていたりしますw
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