断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2023年01月02日(月) いつも最初で最後

公式サイトで情報をかき集めてみたら
これがまた、、自分がおどるときに
思っていることそのままだった—



 Sonny Boy
 夏目監督コメント

 自分にとって「Sonny Boy」は、
 好きなものを詰め込んで、
 全て出しきった私小説的な作品になりました。
 ストーリーも映像も思うように
 わがままに作らせてもらえて、
 こんな事はもう最初で最後だなと思います。
 その分、普通ではないある種
 ユニークな映像作品になっているはずです。
 制作現場も勢いのあるスタッフが揃っていて、
 熱のこもった映像が出来上がっています。
 色々と振り切っているが故に、 説明が少なく
 余白の多い内容になっていますが、
 どう解釈してもらっても大丈夫な作品です。
 自由に受け取ってもらえたらと思います。

 皆さんそれぞれ、
 キャラクターたち彼らの行く末の中で
 何かを感じてもらえたら、
 その何かが見終わったあとに
 一つでも心に残っていてくれたら嬉しいです。



これ、もう、、ほぼおなじだぞ!!涙
言葉を借りると、わたしは
この(最初で最後)をいつもおどっています
とくに人様の振付ではない、
自分のおどりに関しては
ダンスにこたえはなく、
見る人の見えようで 心模様で 心眼で
どのようにもなり得るものです
だからそれを、
そのように《なり得るおどり》にすることにこそ
全てを注いでいます

ただ、文章や言葉にしてみると心がざわつきます。
「何かを感じてもらえたら」
これは想像力に振りきっているからこその
ことばだとも思えるのです。
裏を返せば、
「何かを感じてもらえない」可能性が
あるということです。

もちろんつくりてからすれば
そんなことは《絶対にない》という気持ちで
臨んでいるはず。
そうでなくちゃカタチになんてできない!
(そうでなくちゃおどりなんて踊れない)
不確かで曖昧なもの、とも受け取られかねない何か
で決定的な何かを伝えようとしているのが真実です
ここから先は、
そんな不確かで曖昧なものに
そうじゃないものがある、と信じている者の話です

◎信じていなくちゃ何も始まらない◎


洋舞は止まることがない、《移動のおどり》です。
だからこそ想像を巡らせる余地がほとんどない、
忙しいものとも言えます。
その本質はどちらかというと、
(想像)よりも(圧倒)なんでしょうね。
おどりには洋舞にはない、別の角度があります
その《移動》を《余白》にかえて
わたしはおどりをおどっています

変な話にも聞こえるかもしれませんが、
一見動いているんだか動いていないようなおどりに
目が離せない集中を強いられるとき、
別の何かが感じられてくるのです
カラダから何かが溢れ出しているのに気づいたとき
おどりが、変容していきます
もともと以前から、いや 今でも
「おどりの正体」について
いつもいつでも目を見張ってきました
「この人のおどりは何なのか」

おどりは、、振付じゃない
いつだって振付を超えたところにあります

再現とかそんなものを足がかりとしない、
むしろ、、再現不可能なものなんじゃないか
おどりの余白は、

 その人の「いま」そのものです


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Taisuke [HOMEPAGE]