| 2018年12月17日(月) |
「篠田桃紅 作品展」 |
再復帰公演『The 3rd Birthday』、 絵画と踊らせてもらった自主公演で、 その絵を描いてくれた画家さんに 教えてもらった存在、篠田桃紅さん。 なんと著書までいただいています!
『103歳になってわかったこと』
そう。2015年で103歳!! この本には百歳を超えた真実があります。 それも、決定的な言葉で。 あの言葉を自分のものにするには、、 百歳を超えるか、それとも死を感じたか、 そのどちらかしかないと思えます。 ◎百歳超えたら治外法権◎ 自分がその域になる、なれるなんて、、 到底思えないw なによりもおそろしいのは― その歳でいながらも現役の芸術家!! 作品をつくり続けているんです。
(ようやく作品展のblogを書く年になって、 桃紅さんは2021年3月1日に亡くなりました 享年107歳)
これも、、前回同様、 行き過ぎたタイミングを感じずにはいられません! 亡くなったあとにあらためて振り返ると、、 どうしてもあの時とは違う気持ちになります。 さあ 然しながら 避けられません 2018年12月17日です!
百人一首を中心に|文字とかたち 篠田桃紅 作品展
墨を使った新たな表現方法で、 世界のアートシーンに革新を与えた孤高の美術家 本展では、色鮮やかな料紙に書かれた、 秘蔵の「百人一首」の書、 そして余分なものを削ぎ落とし、 一瞬の心のかたちを繊細で優美な 線と面で表現した抽象作品を中心に 約50点を展観いたします。
もはやダンスとしか読めない作品コメント。
ある日、雪を眺めていて、 ふと、仮名を書きたいと思った。 知らず知らず走る筆に、快く任せている心に、 つと、文学の持つ根元の骨格が、 筆を押さえ込もうとしてくる不思議な はたらきがあることも感じた。 そういう時、仮名書きというものは、 その線は、 私に何を手繰らせようとしているのかと、 かすれた筆あとに眼を止めてしまうのであった。
この感じはダンスそのものじゃないか― ダンス言語として充分すぎます。 この(感覚)の話はよく馬鹿にされることも多い。 「それが何なの?」の一言で一蹴されんばかりの… しかし、これこそが何かが始まる源泉なんです! この感覚がない人に、まことに繊細なものを 現出させることができるだろうか アートの世界には《追及》の果てがありません わたし自身も、この感覚の話ができるのは周りに 数人しかいません。 答えが見出したい訳ではなく、答えがないんです だから、その人の感じたものがどの辺にあるのか これが面白さなのです (その距離が 感じ方が) 一見しただけでは、そのものを見ただけでは わからないものでも、見続けると突然に(わかる) その奥行きがどの辺りのものなのか、が☆ これはもう勘違いでさえ そのひとつとも思えます そう、、《わかる人にはわかる》んです― 理屈じゃないものだからこそ 理屈じゃないものをやっているからこそ これがまかり通る。 ただ、どこからどう見ても、、「すごい」としか 言えないものがこの世にはあるんですよ!
篠田桃紅さんの才能はニューヨークで開花した。 逆に言うと日本で開花したわけじゃない。 これまでの芸術基準と非なるものには たいてい鉄槌がくだされます。 伝統とか文化というものが決めてきた年月が あたらしい発見を、認めないのだろうか。 (年月というよりもそんな人が、かもしれない)
篠田桃紅さんのひと筆には おそろしいくらいの強烈な何か 繊細な何か やわらかい何か 凛然とした堂々とした何か、がある。 これはもう本物を見てもらうしか、、ない。 その勢いや走った線に 言葉にできないほどの生命力がある それも崇高なものを感じるほどだ
すべては すべては その人から漏れ出したものかもしれない 世界とは わたしたちから漏れ出したものなのかもしれない
最後に、展示会場で流されていた 篠田桃紅さんのインタビューを残します 画面前に座り込んで拝聴メモしましたw 断片的ではありますが、是非見ていって下さい
「墨は火で作られ、水で生まれ変る」
孤独とかさびしいとか はじめからわかりきってることでしょ? ひとりでうまれてきて ひとりでしんでいく いまさらよね
真理ってものはね いつでもみんな本気で向き合ってないわね
いつも裏切られてるんですよ 人間はいつもうぬぼれてるから こんなもんだよ いい気になるな 手懐けられないもの 絶望はさせない そんなものです 漆墨、って
かたちをうつすのではなくて 生み出したい
人生ってのは究極に孤独なんですよね 一部を共有した、ってことですよね
篠田桃紅
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