| 2018年01月01日(月) |
「君たちはどう生きるか」 |
ついにカウンター100000を超えましたッッ 10万、、とか、感謝しか、、ないッッ!! 独断と偏見ではありますが、、こんな数字にまで 到達するなんて考えてもみませんでした ささやかで誰もしらないような、 さらに地道すぎるBlogではありますが、、 どうにか何かを という思いでやってきたのは、 踊りとまったく同じ気持ちです 感謝とともに 2018年、入ります☆
大絶賛の漫画を課していただきました!
『君たちはどう生きるか』
もう、、ほんとうに、、何も言うことがない みんな一冊持っておくべきものですこれは!!
読んでない人は絶対読もう
わたしは寝たきりを味わってから読書するように なりました 何もできなかった季節です そしていろんな本を読みました その中でも特に厳しいたたかいを強いられたのは 『ヨガスートラ』 千年以上も前から心の探求 魂の探求 これこそ文章を超えて体感なしにはただの文章です 日常にまるで応用できない 例えば、《印象を捨て去れたらすなわち自由》 毎日を常にあたらしく新鮮にいるすべです 毎日が繰り返しではないこと そしてもう二度と戻ってこないこと これが真実である以上、毎日は毎日じゃありません 印象、は思い込みとも言えます こんなもんだろう、という思い込みが 可能性を鈍らせます こんなもん なんて世界はないからです
この《印象》に逆の可能性について書かれていた
コペルくんのお母さん 「こうして編み物をしていると よく思い出すことがあるの その話をしてもいい? それはね お母さんがまだ女学校に行っていた頃 あれから20年も経つのに ずっとはっきり覚えていて いままで何度も何度も思い出している 湯島天神下の石段の思い出… 次おばあさんが立ち止まったら… “荷物を持ちましょうか” って声をかけよう そう思ってお母さんはあとからついていったん だけど… いま声をかけたら “どうしてもっと早く言ってっくれなかったの かしら” …って おばあさん そう思うかしら… ううん… そんなこと考えても仕方ない… 次こそ声かけなきゃ… あっ… もう 止まってくれない… 結局 階段を登りきってしまうまで 言い出せずにおわってしまった… どうして思ったことを行動に移せなかったん だろうって なんだか情けないような気持ちになったの… 些細なことだけどね… ずっと時間が経った今でも あのときぐずぐずしてしまった自分は 心の中ではっきりと残っているの」
「それを忘れられなくていやな気持ちになる…?」
「ううん そんな自分にお礼を言いたいくらいなのよ 自分の中に少しでもきれいな心がわいてきたら “今度こそ それを生かさなきゃ” って 背中を押してくれることがあるから… もしかしたら潤一さん(コペルくん)にも もっともっと大きなことで やるべきことをできずに後悔することが あるかもしれない… でもね たとえそのときは苦しくても… その経験を忘れてはいけないの これからの長い道のりの中で… きっとなんども背中を押してくれるから…」
これは、、捨て去るのとは逆の《可能性》ですよね いつまでも心に残っていながら力になってくれる その人自身です なりたい自分になるための選択 そのすべての選択がその人になるための血肉なら どんな些細なことも些細なことではないこと それを感じないわけにいきません 2018年をはじめるのにこれ以上ない!! 長くなりますが、是非とも見ていってください☆ そして全編カットなしは購入して読んでください!
人間の悩みと、過ちと、偉大さについて
「人間は、自分自身をあわれなものだと認めること によってその偉大さがあらわれるほど、 それほど偉大である。 樹木は、自分をあわれだとは認めない。 なるほど、《自分をあわれだと認めることが、 とりもなおさず、あわれであるということだ》と いうのは真理だが、しかしまた、ひとが自分自身 をあわれだと認める場合、それがすなわち偉大で あるということだというのも、同様に真理だ。 …それは王位を奪われた国王のあわれさである」 「王位を奪われた国王以外に、誰が、 国王でないことを不幸に感じる者があろう。 …ただ一つしか口がないからといって、 自分を不幸だと感じるものがあるだろうか。 誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったこと はないだろうが、眼が一つしかなければ、 慰めようのない思いをするものである」 本来王位にあるべき人が、王位を奪われていれば、 自分を不幸だと思い、自分の現在を悲しく思う。 彼が、現在の自分を悲しく思うのは、 本来王位にあるべき身が、王位にいないからだ。 同様に、片目の人が自分を不幸だと感じるのも、 本来 人間が二つの目を備えているはずなのに、 それを欠いているからだ。 人間というものが、 もともと目を一つしか持っていないものだったら、 片目のことを悲しむ者はないに違いない。 いや、むしろ二つ目をもって生まれたら、 とんだ片輪に生まれたものだと考えて、 それを悲しむに相違ない。 コペル君。このことを、 僕たちは深く考えてみなければいけない。 それは僕たちに、大切な真理を教えてくれる。 人間の悲しみや苦しみというものに、 どんな意味があるか、ということを教えてくれる。
僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子 供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しい ことや、つらいことや、苦しいことに出会う。 もちろん、それは誰にとっても、決して望ましい ことではない。 しかし、こうして悲しいことや、 つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、 僕たちは、本来人間がどういうものであるか、 ということを知るんだ。 心に感じる苦しみや痛さだけではない。 からだに直に感じる痛さや苦しさというものが、 やはり、同じような意味をもっている。 健康で、からだに何の故障も感じなければ、僕た ちは、心臓とか胃とか腸とか、いろいろな内臓が からだの中にあって、常時大事な役割を務めていて くれるのに、それをほとんど忘れて暮らしている。 ところが、からだに故障ができて、動悸が激しく なるとか、お腹が痛み出すとかすると、はじめて僕 たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障の できたことを知る。 からだに痛みを感じたり、 苦しくなったりするのは、故障ができたからだけれ ど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、 苦痛のおかげなのだ。 苦痛を感じ、それによってからだの故障を 知るということは、からだが正常の状態にいないと いうことを、苦痛が僕たちに知らせてくれるという ことだ。 もし、からだに故障ができているのに、 なんにも苦痛がないとしたら、 僕たちはそのことに気づかないで、 場合によっては命をも失ってしまうかもしれない。 実際、虫歯なんかでも、少しも痛まないでどんど んとウロが大きくなってゆくものは、痛むものより も、つい手当てが遅れがちになるではないか。 だから、からだの痛みは、誰だって御免こうむり たいものに相違ないけれど、 この意味では、僕たちにとってありがたいもの、 なくてはならないものなんだ。 ―それによって僕たちは、自分のからだが、本来 どういう状態にあるのが本当か、そのことをも はっきりと知る。 同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が 人間として正常な状態にいないことから生じて、 そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。 そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来 どういうものであるべきかということを、しっかり 心に捕えることができる。 人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきも のでないならば、どうして人間は自分たちの不調和 を苦しいものと感じることができよう。 お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生 きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあ ったりしなければいられないから、人間はそのこと を不幸と感じ、そのために苦しむのだ。 また、人間である以上、誰だって自分の才能を伸 ばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なの に、そうでない場合があるから、人間はそれを苦し いと感じ、やり切れなく思うのだ。 人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛 を覚えたりするということは、人間がもともと、憎 みあったり敵対しあったりすべきものではないから だ。 また元来、もって生まれた才能を自由にのば してゆけなくてはウソだからだ。 およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつら く感じるということは、人間が本来そんなみじめな ものであってはならないからなんだ。 コペル君。僕たちは、自分の苦しみや悲しみから いつでも、こういう知識を 汲み出してこなければいけないんだよ。 もちろん、自分勝手な欲望が満たされないからと いって、自分を不幸だと考えているような人もある また、つまらない見栄にこだわって、いろいろ 苦労している人もある。 しかし、こういう人たちの苦しみや不幸は、 実は、自分勝手な欲望を抱いたり、つまらない虚栄 心が捨てられないということから起こっているので あって、そういう欲望や虚栄心を捨てれば、 それと同時になくなるものなんだ。 その場合にも、人間は、そんな自分勝手の欲望を 抱いたり、つまらない見栄を張るべきものではない という真理が、 この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。 もっとも、ただ苦痛を感じるというだけならば、 それは無論、人間に限ったことではない。 犬や猫でも、怪我をすれば涙をこぼすし、 寂しくなると悲しそうに鳴く。 からだの痛みや、飢えや、のどの渇きにかけては、 人間も他の動物も、たしかに変わりない。 だからこそ僕たちは、犬や猫や馬や牛に向かっても 同じくこの地上に生まれてきた仲間として、 しみじみとした同感を覚えたり、深い愛情を感じた りするのだけれど、しかし、ただそれだけなら、 人間の本当の人間らしさはあらわれない。 人間の本当の人間らしさを僕たちに知らせてくれ るものは、同じ苦痛の中でも、人間だけが感じる 人間らしい苦痛なんだ。 では、人間だけが感じる人間らしい苦痛とは、 どんなものだろうか。 からだが傷ついているのでもなく、 からだが飢えているのでもなく、 しかも傷つき飢え渇くということが人間にはある。 一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれ れば、僕たちの心は目に見えない血を流して傷つく。 やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、 僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えてくる。 しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たち の心に突き入り、僕たちの目から一番つらい涙をしぼ り出すものは、―自分が取りかえしのつかない過ちを 犯してしまったという意識だ。 自分の行動を振り返ってみて、損得からではなく、 道義の心から、《しまった》と考えるほどつらいこと は、おそらく他にはないだろうと思う。 そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうに つらい。 だから、たいていの人は、なんとか 言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする。 しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを 男らしく認め、そのために苦しむということは、 それこそ、天地の間で、 ただ人間だけができることなんだよ。 人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づい て自分の行動を自分で決定する力を持っているのでな かったら、自分のしてしまったことについて反省し、 誤りを悔いるということは、 およそ無意味なことではないか。 僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、 自分はそうでなく行動することもできたのに―、と 考えるからだ。 正しい理性の声に従って行動するだけの力が、 もし僕たちにないのだったら、 なんで悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。 自分の過ちを認めることはつらい。 しかし過ちをつらく感じるということの中に、 人間の立派さもあるんだ。 「王位を失った国王でなかったら、 誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう」 正しい道義に従って行動する能力を備えたもので なければ、自分の過ちを思って、 つらい涙を流しはしないのだ。 人間である限り、過ちは誰にだってある。 そして、良心がしびれてしまわない以上、 過ちを犯したという意識は、 僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。 しかし、コペル君、お互いに、 この苦しい思いの中から、 いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか! ―正しい道に従ってゆく力があるから、 こんな苦しみもなめるのだと。
「誤りは真理に対して、ちょうど 睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。 人が誤りから覚めて、 よみがえったように再び真理に向かうのを、 わたしは見たことがある」 これはゲーテの言葉だ。 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。 だから、誤りを犯すこともある。 しかし― 僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。 だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。 そして、コペル君、君のいう《人間分子》の運動 が、ほかの物質の分子の運動と異なるところも、 また、この点にあるのだよ。
なんども言葉にされていたのは、 《僕たちは自分で自分を決定する力をもっている》
それは、自分が自分自身になろうとする力、とも 言い換えられる気がします。 行動・振る舞いの選択がその人そのものになる。 復帰公演タイトル『Choice』 そのタイトルはここに由来していました いつまでもそれを忘れずにいたいと思っています
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