断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2016年12月25日(日) 真実のありか

この本には、わたしがずっとかんがえている問いに
ひとつのこたえがしめされていた
とんでもない本ですッッ
そして これが著書についての最終稿となります☆
ようやく2016年のおわりが見えてきた!おそっ!涙
◎是非ともご一読ください◎


 『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅


 「真実は伝えられない」

 真実は皮膜の間にある。
 これは、人形浄瑠璃、歌舞伎の作者、近松門左衛
 門の有名なことばです。 もちろん科学的に、
 皮と膜の間にはなにもありません。
 なにもないのに、そこに真実がある、というのは
 どういうことでしょう。
 私の従弟で、近松門左衛門の『心中天網島』を
 映画化した篠田正浩は、
 言葉と言葉の間にあるという意味だろう、
 と私に言いました。
 真実は、言葉にしえないし、文字にもしえない。
 想像力を頼りにしなければ、語れないもの。
 近松門左衛門は、そう言いたかったのでしょう。
 たとえば、悲しい、という言葉一つとっても、
 悲しいという感情が主体であっても、寂しさや
 辛さなど、ほかの感情が微かに混ざっているかも
 しれません。 心の奥底には、本人も自覚して
 いない安堵感もあるかもしれません。
 ですから悲しい、と言葉にした時点で、
 ほかの多くの感情は失われてしまいます。
 伝えきれないもどかしさ寂しさ。表現には限界が
 あり、そして真実自体も本人すらはっきりとわか
 りえない神秘的な、不思議な部分があります。
 真実というものは、究極は、
 伝えうるものではない。
 ですから、私たちは、目に見えたり、聞こえたり
 するものから、察する。
 そうすることで、真実に触れたかもしれないと
 感じる瞬間が生まれるのかもしれません。
 真実は、想像の中にある。
 だから、人は、
 真実を探し続けているのかもしれません。

 「真実は見えたり聞こえたりするものではなく、
  感じる心にある」


おどりはかたちにのこりません。
画家さんに会ったりしたとき、
とてもうらやましい気持ちになります。
自分がつくったものを自分で確認できる!
ダンスは、、自分自身が踊っているので、、
そのとき、その場所で確認できることがありません
ビデオとかじゃダメなんです
できるなら、自分の踊りを、空間を、、
そのときのすべてを確認したい
できません
しかし、、そのぶんの可能性があります
それは《今》をかんじる、かんじとる感性です
それも《相手ありき》というのが肝心
なにしろはじまるまえからまわりに人がいます
いま、目の前の人に “対して” いること。
その空間に “自分がいる” ということ。
ダンスは自分のすべてをつたえられるわざです。
それも、、嘘いつわりが見抜かれるほどのわざ。
自分のすべてが筒抜けになってしまいます。
ここに恐怖も感じるわけです。
これこそが真実の正体かもしれない
相手あっての ほんとうの自分
すべてが見透かされてしまうリアル
真実は、、丸裸ですw
怖いし、恥ずかしいし、最悪ですッッ 笑笑
でもきっと真実なんてのは、、
そこからしか見えてこないんじゃないか
勇気がなければ真実はとりだせません。
そしてその真実は受けとる側もそれに向き合って
いなくては受けとれません
これはまるで一方通行ではない話です
なにしろこちらは《まるはだか》ですw

きっと しんじつ は きょうどうさぎょう

しんじつはどうやったらつたわるんだろう
これまでおどってきてその問いは常にありました
“しんじつ” というよりも
“ほんもの” をさがしていました
なにしろダンスはことばの前です
ことばになる直前のからだの様相
音楽家ならば音になるまえの―
どんなこともダンスがなによりもはやい。
そうおもうのです
なにかに表す前のもの
誰かになにかをつたえたい
もしかしたらダンスとは
《誰かになにかをつたえたい》という
《そのもの》かもしれません。
そうかんがえるとダンスはかたちや結果ではなく、
つねに表される “まえ” のものではないか
そんな気がします
“ダンス” へと変容していくカラダ
そこになにかをかんじずにはいられない
ダンスとはそんなものではないか、
いまはそんな気がするのです
あらわされるまえである以上は
どんなことともとらえられるかのうせいがあるもの
かもしれません
もしくはどうともとらえられない
まるでわからないもののかのうせいもあります
じぶんのなかの “ほんとう” をとりだすのは
いつも困難です
なにしろこころにはいつも雑音が鳴り響いていて
とてもうるさいからです
どうしたらその “雑音” をなくせるか
いつもその方法をさがしています
このとおりみちはほとんど《瞑想》かもしれません
ほんもののじぶんをてにいれること
こうして《しんじつ》をつたえるためには
じぶんじしんが《しんじつ》そのものになればいい
のだと気がつきました

《ほんもの》になれさえすれば
 すなわちすべてが《しんじつ》

ほんものに、しんじつに、なる方法を
これからもきっと、
ずっとさがすのだろうとおもいます
うけとられるまえに
わたしにできることは これだけです。

おどったあとは手から放れてしまいます

ほんとうのじぶん、っていったいなんなのか
みんなのまえにたつ以上は
それを自分自身でたしかめなくてはなりません
とてもとてもむずかしいことです

きょうこの日まで
こころがふるえるしゅんかんが
わたしにはありました
ダンスに涙がとまらなくなるような
そんなしゅんかんがたくさんありました
そんなダンスをおどれるひとはひとにぎりです

そのひとが《しんじつ そのもの》だからです


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