| 2016年07月29日(金) |
意識と心、自分の在処は |
「意識は、意識を支えるもの、 すなわち揺れる心について常に知っている」
心は対象のことを知っている場合もあれば、 知らない場合もある。 そのため、揺れる心と呼ぶのだ。 しかし、意識は常に心の状態について “気づいている” 。 このことから、意識の不変性、変化しないことが 確立されているのだとヴィヤーサは言っている。 そうでなければ自分の思考について知っている時 もあれば知らない時もあることになってしまう。 しかし、好むと好まざるとにかかわらず、私たち は常に自分の思考に耳を傾けなくてはならず、 これが意識は常に気づいているということなので ある。 遭遇するすべての現象を一日中観察すれば、 変わらないものがあることに気がつくはずだ。 私たちの中にある “気づき” である。 差し出される対象がすべて変わっても、それらの 対象に差し出される気づきが変わることはない。 この気づきは、意識の所有するものである。 もし気づきが心の所有するものであるなら、 心はすべての対象に関する永遠の知識を持って いなければならなくなる。 しかしそうではない。 心は対象について知識を持っていることもあれば 持っていないこともある。
もうこれまで何度も心についてふれてきました! 心を踊ってきた自負のあるわたしでしたが、 心ってなんなのか いつだって疑っていました。 踊っていていつもたしかなものでないような、 たしかなものを踊りたいのに常に変化してしまう そんな曖昧さや不安にかられていた気がします。 心=思考ともいえるのでしょう。 すべてがこうとは言えないかもですが、 おおよそ思考が心だと思えます。 この心というのはそのときの状況や好き嫌い、 いろんなものの上に乗ってくるものです。 そのときまでの生きてきた経験で、乗ってきたもの に自動的に色付けをしているのが心のようです。 この生きてきた経験が衝撃的であればあるほど、 決定的に色付けがなされるのだと思います。 この色付けをとろう!というのが自由への近道。 それが昨日の内容でしたw わたしたちは生きてきた年月がそのまま色付けに 直結しています。 ダンスは創造性にアタックする職業です。 だからこそ、ここに常に疑惑がありました!! 色付けはどうやったら取り除けるの?? そんな疑惑がスートラにはかるく載っていたww にくたらしい聖典ですッッ(爆) 長年かけて二足歩行で考えに考えて、こないだなん か歩けなくなって松葉杖になってさえ考えて考えて それまででどうやったら解き放てるか、を自分自身 のカラダでもって挑んできて、、、 そんな答えが、、かるく載っていた― これまで踊ってきて感じていたのはこうでした。
心の奥底には決定的に信じられるホンモノがある
これにどうやったら近づけるか。 ダンスで近づけるか。 それを一生懸命考えて踊ってきました。 わたしはスートラを読んでおもいました。 自分が悩んできたこと どうやら間違いじゃなかった みんな自分がなんなのか、同じこと考えてた人、 紀元前からいたよ☆(爆) 見てきたダンスでもっとも異様な部類。 これまでに感じたことのない《圧倒的ニンゲン》 どうやったらあんな踊りができるのか。 すべてを投げ捨てない踊りはどうすれば踊れるのか 自分本位をどうやったら超えられるのか どうやったら相手につたわるのか
つまるところ、簡単にはいきません。 はじめから “厳しい” 考えてみれば最初から奥底なんて突然異次元だよ! そんなのは “異様” に決まってるよ!! ◎そういうわけで これが究極の答えです◎ もし。 もしも何かが通っていたら。 浅はかなものでないのなら、、 肌で感じざるを得ません この異様さが常にとんでもない感動への鍵でした そもそも感じたことがないものなので、 初見は気持ちがわるいはずですw 拒否反応出たってなんらおかしくありません。 逆に最初から奥底を受け取れたりしちゃったら、 たいへんな感性 or 人間力。 これがダンスを “難しくしている” 理由のひとつ だとおもいます。 しかしここを目指すなら。 結局は生き方です。 こんな奥底は一朝一夕で踊れやしません。 今をどれだけ大事にしているか。 今どんな自分自身でいるか。 ここをいつも通っていなければ
「心は、気づきの光を持ってはいない。 それが見られるものの本質だからである」
意識は純粋な気づきであるということはまた、 私たちが意識を直接観察できないことも 意味している。 意識とは、観察できるすべてのものを非本質的で 一時的なものとして拒絶し、内へと向かう旅の 途中で発見されるものなのである。 私たちは体を観察することができ、 それゆえ自分は体ではないことがわかっている。 観察できるということは、外にある対象だと いうことだ。 心についても同じことが言える。 「心のために、私は気が狂いそうだ」とか 「私は心変わりした」 こうした台詞が存在するのは、心を所有し操作 する層、心の中に位置しないもっと深いところに ある層が存在していることを意味している。 気づきとはこの層のことである。 もし気づきが心の中に位置するのであれば、 私たちは何か動物のようなものであっただろう。 つまり、自分の外にある世界のみを意識し、 一日中自分の行為を省みることなく 衝動と欲求に従うはずである。
このスートラは自分にとってたいへんな発見でした 自分が悩み抜いてきた《答え》だったからです “考えているうちは踊りになっていない” ◎ダンスに直結した瞬間でした◎
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