断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年11月22日(日) 正しい教えは滅びない

ブッダの遺言の書ともいえる『涅槃経』
いよいよ最終回です!

 2500年の時を超え、
 今も生き続けるブッダの遺言とは―

旅の最後、死を悟ったブッダは「疲れた」と言って
身体を横たえ、いよいよ涅槃のときを待ちます。
そして、不安がる弟子たちに言い残したのです。

〜弟子たちへの遺言〜

ついにブッダは涅槃に入ります。
最終回は その涅槃のときの様子、
涅槃を受け止めた弟子たちの様子です!
そして、仏教というものが
その後どのように長く維持されていったのか、
その秘密に迫れるのだ!!
是非最後まで見てくださいねw
まとめるのかなりつらかったです!
ほとんどそのまんまなんですけど 笑笑
では、直前涅槃からッッ

ブッダは大勢の弟子たちと共に涅槃の場所となる
クシナーラに向かった。 到着してこう言った。

「アーナンダよ、私は疲れた。 横になりたい」

沙羅双樹の下に静かに横たわり、
最後の時を待つことに。
そしてブッダはこう語った。

「ブッダというものは花や音楽で敬われ
 供養されるものではない。
 ブッダを真に供養するというのは、
 お前たち出家修行者たちや、
 あるいは在家信者たちが 教えにしたがって
 正しい生活を実践することなのだ。
 それこそがブッダを供養するということなのだ
 だからお前たちは
 私の教えに従って正しく修行せよ」

〜ブッダの供養〜

先生は言った。
「ほんとに私を供養するということは、
 私が一生をかけて説き遺した教えに従って
 お前たちがこれからもずっと
 修行生活を送っていくことである、
 こう言うわけです。
 つまり、人が死ぬということは
 その人が一生をかけてやってきたことを
 周りの人たちがどう評価するかという、
 その評価がすばらしいというのが
 正しい供養だと、そういう意味です。
 ブッダの一生を振り返りますと、
 やはり自分のこころの苦しみを感じ取ったところ
 から修行生活がはじまり、そして悟りを開いて、
 その悟りの道を 今度は自分一人のものにせず
 皆に知ってもらいたいと布教活動に入ります。
 一生かけて何をやったかっていうとそれは、
《人を救うために自分の人生をかけた》
 わけですから、
 そのブッダを供養するということは
 その教えを尊重するという以外にないわけです。
 これは私たち自身の人生にも関わることなので。
 私たちはまあ生きてますけど、
 いつか死にますわね? で、死んだときに
 どのように自分を供養してもらいたいか、と
 考えるときにね? 一番大事なのはその
《供養してもらえるような人生をつくってきたか》
 ということなのね。
 ですから、実は毎日暮らしている間、
 私たちは死ぬということを忘れて
 暮らしてますけれども、
 ほんとはこの忘れてる毎日毎日が
 実は死に向かっての人生の積み重ねになってる
 ことを自覚しないと、死というものは
《生きてきた人生全体の総決算》ですから、
 他の人の死を我々が受けとめるときにも
 そういう立場でいるべきだ、ということですね」

ここで先生の発言に度肝きました―

「そういう意味では今のお葬式を考える場合、
 単にひとつの儀式として捉えるのではなく、
 亡くなった方の人生の総決算として
 それを受けとめるのが本当のお葬式です。
 実を言うとお葬式の本質はね、
 儀式よりもその前の、
 《お通夜》にあると僕は思うんです。
 お通夜ってのは知人が皆集まりますね?
 集まって亡くなった故人のことを
 いろいろ話し合うんですよ。
 そうすると皆が頭の中に断片的に思っていた
 その人の人生のいろんな事柄が
 そこで全部集合してひとつの人に蘇ってくる。
 そしてその人のやったこと、言ったことが
 後々の人のこころに残っていく、それが
 ブッダが言っている本当の供養ということです」

これには唸りました!! 《お通夜》です。
故人を甦らせることがわたしたちにはできます
そして甦らせることでわたしたちの力となるのです
苦しくてつらいけど、わたしにもありました
その度に生きること おどることに
つながっています

〜涅槃ブッダ〜

死の直前、嘆き悲しむアーナンダと
弟子たちに向かってこう語りかけます。

「お前たちは “我々の師はもうおられない” と
 考えてはならない。 私の説いた教えと、
 私の定めた法律が、私亡き後の師である」

「私の死後、お前たちは今までの様に
 互いに“友よ”と呼んではならない。
 先輩の比丘は新参の比丘を “名前で”
 あるいは “姓で” あるいは “友よ” と呼べ。
 新参の比丘は先輩の比丘を “尊い方よ”
 あるいは “尊者よ” と呼べ」

僧侶の組織であるサンガの修行者たちに
上下関係をはっきりさせよ、と命じたブッダ。
上下関係といっても能力主義ではなく、

《年功序列》を意味していた―

サンガ内で能力主義を取り入れると、
権力闘争が起こってしまう。《年功序列》は
この権力闘争を避けるための教えでした。
さらにブッダは続けます。

「私の死後、
 もし欲するなら些細な規則は廃止してもよい」

「もろもろの事柄は過ぎ去っていく。
 怠ることなく修行を完成せよ」

この言葉を最期に、ブッダは涅槃に入った―



先生は言います。
「私が偉いんじゃないんだ、
 私が見つけた真理こそが
 お前たちのほんとの導きの元だというんですね。
 それから、何故このような上下関係が必要かと
 いうとこれは単に座るときの席順がスムーズに
 決まるとか、物を分配するときに上の人から
 順番に配っていくとか、
 サンガの運営の中での序列にすぎないんです。
 だから個人の資質はまったくそこに反映しない。
 そうしますと
 《上にあがることの意味がなくなる》んです。
 ですからサンガの中では
 絶対に権力闘争が起こらないんです。
 ライバルを蹴落としてシェアを拡大するという
 場合には能力主義のほうがいいんでしょう。
 しかしながらその場をこれからも
 百年二百年維持していくことが
 その組織の目的だというならば
 こちらのほうがいいです。
 ここまで徹底的に権力闘争を防ぐ状況にして、
 それでやっとサンガは2500年ですw」

〜涅槃後〜

ブッダの死後、まだ煩悩のある弟子たちは
「あまりにも早くお亡くなりになった」と泣き叫び
煩悩から離れた弟子たちは「この世は諸行無常だ」
と泣きたい気持ちを我慢していた―
葬儀は7日間に渡って行われたが、
最後に遺体を焼く場面で事件がおきた。
スバッダという弟子がこう言い出したのだ。

「友よ悲しむな!
 あれこれ行動を指示していたブッダが亡くなって
 我々は自由になった!
 これからはなんでも好き放題だ」

それを聞いた弟子たちの一人
マハーカッサパは改めてブッダの教えを
弟子たちに説きその場を収めます。
一同が落ち着いたあとブッダは火葬されたのです。

あるあるですw
こういう人いるいるですww

仏教サンガを守ってかなきゃいかんよ という、
涅槃経ラストはなんと自戒の段なのです!!
しかし驚嘆すべきはこれ。
◎組織運営の形が “遺言形式” で残されている◎
弟子はこれを読んで《ブッダの遺言》として
組織運営の正しい方針を学んでいくのです。

先生はまとめに入った
「死に向かう自分の在り方を学べますし、
 死んでいく人たちを我々がどのように送るか
 ということもこのお経に明確に書かれています。
 その人の積み重ねてきたものを
 我々は評価する責任がある、ということですね。
 それが人の死を悼むというほんとの意味だと」

“自分がどういう死に方をしたいか”

これをいつも土台にもつことが大事なのでしょう

先生
「考える時間というのが何よりも大切です。
 外からのつまらない価値観に
 翻弄されるんじゃなくて《自分の価値観》で
 今の自分や死んだ後のことを
 予想することがとても大事なことなのです」

瞑想って修行だわ

まず何が自分にとって正しいか、
それは自分で自分を見つめないと見出せない。
その答えがなかなか出ないし近づけなくても
それを考える習慣ができたら それすなわち修行w
ブッダでもこんだけかかってんだから、
ま、今日のところはこれくらいでしょうがないだろ
っていうところまでは頑張ろうww

 無駄に悩んでるのと、
 ちゃんと修行になるような悩み方してるのは
 大きな差です☆

いやあマジ2500年…ヤバイよね―
正しい教えは滅びない!

自分を救えるのは自分自身ですッッ


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