断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年06月14日(日) 術後 五日目

早朝。朝食を摂ってこっそりと病棟を脱走。
裏口から病院を抜け出して、わたしは日曜ミサへ。
毎度ですが、わたしはクリスチャンではありません。
この病院の裏の教会はわたしのダンスの先生の葬儀が
行われた場所だったのです。
それもこの病院に通い始めてからわかったこと。
とんでもない “何か” を感じます
病院にいるときも研さんに見守られている気分です。
だからこそ、怠惰には決してできないのです
そのお母さんに誘われて入院してるときには参列して
います。
カトリックの門戸は全開でオープンですw
わたしも早いとこ全快になりたい!!
宗教の話となるとどうしても怪訝に思われる方も多い
とおもいますが、聖歌を一度聴いてしまうと、そんな
ことどうでもいいように感じます
こういう場にいることで考えが巡ることも事実です

 いつも行かない場所だからこそ、気付きがある

聖歌には自然と心清められてしまいます。
もう理屈じゃあないッッ
主を崇める歌ではありますが、大切なことが明確に
歌詞に刻まれています!
日常では恥ずかしくて絶対に口にしないような言葉。
そんな言葉を口にすると、おそろしいことに、、
自分が問われていることに気付きます!!

 果たしていつもこの気持ちでいたのか いられたか

わたしは今日こそ泣かないと気を張っていましたw
が、、やっぱり無理でした
頭でしっかりと考えた。  “何で!?”
しかし、いくら考えてもわかりません。。
とても不思議なことです
なんとなくではありますが、

 今日は自分が “穢れている” と感じました

「平和」とか「愛」を口にすると、
どうやっても自分と向き合わざるを得ません

入院している間にはやはり嫌なこともあります。
外には出られませんし、とても狭い世界です。
ここで嫌なことがあるとどうしても心病みます。
気分転換もできません。
カラダを動かして無理矢理わすれるしかない。

自問自答は自分を間違えさせない唯一無二の方法です
いつも書いていますが、その時間をもつと心に余裕が
できてやさしくなれます
激情に身をまかせてしまうと大変なことになります
大変なことじゃないものも大変なことになりえます
人間ってほんとうにおもしろいです

 自分が落ち着いて冷静になれば世界は変わるのです

わたしは歌を歌えません
とても歌が下手だからです
みんなの前で歌えるのなら踊ってやしませんw
下手だけならまだいいけれど、ほんとうに気持ちを込
めると気持ちがあふれて歌えないのです
自分でもわかりませんが、涙がボタボタ落ちます。。
自分の感情の起伏がおかしいのかと思っちゃいます
聖歌だけではなく、いろんな心揺さぶる歌。
そんな歌を口ずさむとどうしても歌えません
カラオケなんかもってのほかです!!(爆)

聖歌はどうしても自分と向き合ってしまいます
そんな歌は事実、なかなかないのではないでしょうか

◎さあここでダンスです◎
歌にそんな力があるのなら、ダンスにもあるはずです

 どうしても自身を問うてしまうダンス

踊り手を超えて自分がわかるダンス。
わたし自身も数年前まではそんなこと考えたこともあ
りませんでした。 ですが、復帰ソロ公演を終えて、
『Choice』の感想にこんなものがありました。

「ゼロ距離。
 制限された空間ゆえ、イマジネーションの光が
 無限に広がる感覚、かな。
 あふれるインスピレーションを全身で感じました。
 体を持っているということ。
 経験できるということ。 繋がれるということ。
 今ここにいるということ。
 言葉では言い尽くせない色んな感情が涌き上がって
 きて、彼を見ているようで多分見てたのは自分自身
 だったのかな…」

この感想は今のわたしをささえています
その文章に《これだ!》と感じたのです
あの瞬間が聖歌と同じ “何か” となったのなら、
大変なスパークです
わたし自身のおもいも超えた瞬間だったのなら、、
踊り手としてこれ以上のしあわせはありません。
ダンスはどうしてもカラダを酷使するものです。
あの領域には心身ともに自分を超えなければ、
たどりつけやしません。
歌のように口ずさめば、、とはいかないのです
これがダンスの苦しいところです
見ていただく、ということにどれだけ挑めるか
これをいつも胸に刻んでおかなくては、と
そう感じています


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Taisuke [HOMEPAGE]