断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年05月15日(金) 「コンドルズ ソロダブルビル」

◎東京からソロダンスがやってきた◎
あまり足はすすみませんでしたが、気力を振り絞り、
ない頭を向けてすすんできましたッッ
席についたらすぐ前の席にギャル◎ンの店員さんがw
おっそろしくかっこいいから即わかりです 笑笑

 『ハラホロヒレハレ』
 『手のひら』

ふたつの作品に共通するのはとても個人的な事情を
踊っているということ。
これは自分も踊っていて痛感するのですが、舞台の上
というのは、《個人的な事情》がとても《他人事》に
見えてしまうのです。
《他人事》としてつくるのも一つの技術ですが、今回
はどちらかというと丸投げに近い。
それが、わたしには刺さりませんでした―

 どうしても響いてこなかった

ソロは、ほんとうにむずかしいです。
情動の距離感。 考えただけでもゾッとします
15分を超えての尺ともなると、同じ踊りを続けられま
せん。自分が飽きる前に、見ている人が飽きてしまう
だから、感受性の起伏がどうしても必要です。
完全に振り付けられたものであればまた別ですが、
勢いや気持ちは “そのとき” に現れるものです
これを制御するというのは生半可にはいきません!!
リアルを受け取ってもらおうとするのなら、
まずは自分自身がリアルにならなければ。
ここにウソがあると、踊りになりません

 カラダはウソをつけないものです

どうやったらひとりひとりに向き合えるのか
それには、自分自身に向き合わなければなりません。
結局はここに行き着いてしまいます
どれだけ自分を知っているか
自分の気持ちがほんものかどうか
その根源、その衝動がダンスを生み出すのです
そして深度。どこまでそのダンスが深いのか
これはもう、、ほんとうに終わりがありません!!

これまで見てきた偉大なダンスたち。
そこには自分を知っているとは真逆のものもあった。
《自分を知らない》からはじまるダンス。
自分自身を最後まで探していくダンスです。
知らないこともまた、終わりがありません!!

 もしも知っているのなら、どこまで知っているか
 それが踊りにあらわれます。
 ああ、この人はこんな人なんだなあって

その内観がどうにも抜け切れていない感じがした


これは技術ではなく、感じとる “何か” です
個人的な事情をダンスにしたとして、それを楽しく
見てもらおうとすると自虐的な方向をたどって、
ピエロのようになります
これは笑えません。。
だってその思いが、本当は “重い” んだからw

すごく大切なことを、かるいダンスにしてしまうと
ほんとうにかるくなってしまうんです

誠実に自分の気持ちに向き合ったら、
きっときっと重いダンスになるはず。
しあわせだーーーって人はこんなの踊る必要ないw
そんな人のこれくらいでいいやーーーってのの、
《これくらい》が《どれくらいなのか》
っていう 世界なんです!!
だから、もっともっとずーんと重たいところから
光を見つけ出してほしかった
かんたんに光なんか見えやしないんです
いたみやくるしさだってけっしてこんなところの
ものじゃない  そして、そして…
その先にはきっと命の輝きがあるはずなんです
そんなことを思ったのは、たぶん、、
今の自分を救ってほしかったからだとおもうw

だって、ダンスにはその力があるんだものね!!


 < 過去  INDEX  未来 >


Taisuke [HOMEPAGE]