| 2014年09月06日(土) |
「“RNAM” ナム」 |
入院中、たくさんの人から本を課してもらえましたw 読書時間はいくらでもある、そう思ってた。 でも実際には鈍痛で、集中できることがない。 読もうとする余裕がまったくありませんでした… そんな中で、唯一ファンタジーものがありました!
『“RNAM” ナム』 木倶知のりこ 時空を超える光と水の旅
術後マジでファンタジーしか読む気がしませんでした。 《自分の今、現実が痛かった》 少年の冒険譚。 それも宇宙の真理につながる冒険!
「やあっ、イシュナール。 それにシャラーンじゃないかぁ。 久しぶりだねぇ。 どこに行くんだい?」
「いっぱい遊んでくたびれちゃったから、 もう帰るよ」 ぼくは答えた。すると、
「ふーん、そいつはなかなか面白そうだね。 ぼくもいっぺんでいいから、 そんなことやってみたいなぁ」
「面白そう? ぼく、くたびれて帰るだけだよ」
「ふーん、でも難しいんでしょ?」
「そんなの、難しいもへったくれもありゃしないよ」
「ふーん、じゃあ、 ぼくにもじっくりコツを教えてくれるかい?」
「えへっ、まいったな。 くたびれるコツだの、帰るコツだのなんて、 そんなもん知らなくたって、誰だって、 くたびれりゃ家に帰りたくなるんだってば」
「ふーん、ほんとに? ぼくでも? あっいけない。 今日は縄跳び遊びの約束してんだっけ。 残念だけど この次にしとこ」
「この次、この次ってね、きみはくたびれないから いいのかもしれないけど、 でもそんなこといってたらいつまでたったって…」
世の中には “この次にしとこ” って言う人、いるよね。 いっぱいいっぱいいるよね。 この少年は毎回その言葉しか言いません。 やりたいと思ってるだけで、やらない人の代表みたい。 わたしも主人公イシュナールと同じ気持ちになる。
“そんなこといってたら いつまでたったって”
さぁあなたはどうですか?? 毎日に追われてるのはみんな “同じ” です。 同じだからこそ時間をつくるんです。 時間は、つくらなきゃ、何も始められません☆
ま、これも、ちょっとしたコツなのだが。 つまり、 “果てがあるって考えないこと” ここのところがだいじだ。 目を閉じて闇の視野を研ぎ澄ませ、たったの 一瞬でいいから永久というやつを完璧に見る。
好きなこと、追求していくと “果てがない” 考えるもなにも、果てがないんです カラダの神秘についても。 まったく果てがありません 既に永久のど真ん中です☆
想像の世界では何もかもぼくの望みどおりになった。 でも、その代わり、ぼくが何も想わなきゃ 新しいこともひとつも起こらなかった。 それがこの国ときたら、あらゆるものが好き勝手に 動いたり、自分の意志で新しいことを始めたりする。 しかもその勝手な意志がぶつかり合わないばかりか 互いの隙間を埋め合い、支えあっている。 これは奇跡としか言いようのない世界じゃないか―
想いって一体なんなんでしょうね? ほんとうにわかりません。 《衝動》とも呼べるものかもしれない。 もし何も想わなかったらわたしはダンスを踊れません!
ナムは言います 解らなくなるというのは解りかけてきた証拠。 謎と答えは必ず一対で生まれて来ますからね。 解らないことに気づいた時はもう答えを手に入れた 時なのです。 謎と答え、光と闇、生と死、 こんなふうに相反するものはすべて《時間》に 展開されないかぎり、もともと一つのものなのです。 それがいっぺんに見えないところが《時間》の 大変に面白いところ。 《時間》とは、箱の中から 出来事を一つずつ楽しみに取り出すようなもの ですからね。 箱を開けずにまるごと持てば、 あらゆる時がすべて同時に手の中にあるのです。 あなたは最初から答えの在りかも知っていましたから ただ、自分が知っているということに 気づいていなかっただけ。 いいえ、むしろ楽しみにとっておいたと言った方が 良いかもしれません。
イシュナール 僕たちは答えを探し始めたりしなければ出会うことは なかったのかもしれない―
この件には唸りました。 特に、《解らないことに気づいた時は、 もう答えを手に入れた時なのです》 ちょっと違うケースですが、 自分の執るべき方向を迷っているとき、実はもう とっくに答えを出してる自分に気づいたりしませんか? わたしはこれまで多々ありました。。 答えを出してる自分に気付かなかったりしてること。 立ち向かう決意、勇気がたりなくて、 誰かに一言、後押しされたくて。 わたしはそれを相談しているときに気付きました。
◎相談するときには、実は答えが出てる◎
相談している最中に、言葉にしている最中に、 それがわかるんです。 おかしな話に聞こえるかもしれません。 ですが、言葉にすることで自分の考えが驚くほど まとまっていることに気付くんです。 おかげでおおよそ相談はしなくなりましたw
有る時は無いことを忘れ、 無い時は有ることを忘れる
どちらも忘れない方法はないものか?? もしかしたらダンスにはそれが出来るかもしれない そうおもっています フィジカルとハートの関係がこれに近いからです
有と無が、生成と崩壊が、生と死が、夢と現が、 もともと一つのものだということを想い出し、 初めて共に目を開いてやって来たのですよ
カラダとこころはもともと一つのものかもしれません。 いろいろ分けて考えがちなものですよね? 最近は特に脳だけ取り出して― とかの作品多すぎてw でも踊れば踊るほど、不可分なものを感じます どちらも揃っていないと《生きてる》って思えない
閃きの一瞬の内に何もかもを まるごと新しく生み出す力を持っているんだ
閃き、閃きもわかりません。 ほんとうにわからない なんなんでしょうね、閃きw でもそんなときがあるよね― 全部が “あたらしく” なる感覚
本当の自分が誰なのか、澄み渡った目を開いて 自分自身の姿を見てみたかった。 見つめてくれる目がなければ、 自分を知ることも、確かめることも出来なかった
他者がいなければ自分がどんな存在なのかわからない。 自分がわからなくちゃ人と向き合えません。 自分がなりたい自分。 イメージできなきゃ、きっと近づいていけない 自分を知ろうとしなければ確かめることはできません ここで途中の台詞に戻ります。
「僕たちは答えを探し始めたりしなければ 出会うことはなかったのかもしれない―」
答えを探してる途中の出会いはきっとホンモノです。 なにしろ やむを得ずの出会いではないからです。 やらされることでなく、自分で選んだ方向性。 それはまったくあやふやな出会いじゃありません。 わたしの場合、手術はやむを得ずのものでした。 それでも病院での出会いがわたしをたすけてくれます 一目みれば “わかる” それは、立ち向かい方の姿勢です。 “なんとかしよう” とするエネルギー。 そんな人たちには決まって惹きつける引力があります。 だって《理由》があるからw
手術が終わり、新タイスケの歩みは始まりました! 万全になるにはまだまだかかりますが、 《タイスケ創世祭》の真っ最中と言っていいでしょう☆
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