断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2012年09月30日(日) 「アシュラ」

有害図書として糾弾された幻のマンガ、アシュラ。
世界を驚愕させたさとうけいいちが、封印されたケダモノを全世界へ解き放つ。

 『アシュラ』
 眼を、そむけるな。

15世紀中期、相次ぐ洪水、旱魃、飢饉で荒野と化した京都。
それに追い打ちをかけるように始まった日本史上最大の内戦、応仁の乱。
その死者数、行方不明者はあまりに膨大で、歴史に刻むこともできなかった。
こんな時代に産み落とされた赤子。
母も飢えの極限から逃れられず人間性を失って我が子を食べようとしてしまいます…
寸前で我に返った母は赤ん坊の我が子をそのまま置き去りにして走り去ってしまった。
そんな赤ん坊はただ一人、ケダモノとしてサバイバル余儀なく生きていた―
そんな時一人の少女、若狭の優しさ、そして法師の教えに触れアシュラと名付けられる。
アシュラは次第に人間性を備えていく。 言葉を覚え、笑い、喜ぶ日々。
しかしそれは苦しみと悲しみの始まりでもあった。
やがて若狭たちの村まで覆い尽くしていく天災と貧困。
追い詰められた人々は、次第に人間性を失っていく。 ついには若狭さえも…
踏みとどまろうとする若狭を、何とか救おうと苦しむアシュラ。
 「こんなに苦しいのなら生まれなければよかった」
悲しみに耐えかねて叫ぶアシュラに法師が言う。
 「苦しいのは、お前がケダモノではなく人間である証だ!」

生きることは食べること
わたしたちが考える思考は人間か、獣か

 「人でなし!」

映画を見ながらおおよそ他人事じゃないのかな、そう思った。
だって食べものがどこかにあるように見えるからです。
だから今のわたしたちとは比べられない、比べられるはずがない。
ギリギリの状況? どこかそうは思えない。

 凄い映像なのに、なぜか胸に迫らない

そうだ、じゃあ理性は? 人の理性はどこにあるの?
言葉のない理性がありえると思いますか?
言葉、言語そのものを知らない理性がありえると思いますか?
わたしたちは人間社会で育っているからこそコミュニケーションがとれるのです。
じゃあ、そもそも人間社会で育ってなかったら??

 こりゃ問題が壮大すぎる

わたしたちがもし一人で世界を生き延びなきゃならないのなら
アシュラはまったくの“フツー”です
命を殺めて生きていくのが人間のあらがえない性。
 人が人を殺しちゃいけない
 じゃあ他の動物ならいいのか
これはもう終わりのない命題です―

 いいもわるいもない、生きること   生きることって何?

若狭の台詞 「人を食べるくらいなら死んだほうがまし」
それは果たして“正しい”の?
自分のエゴだけならありうる。 それを自分が選んだのなら
でも、守るものがあったら?
この映画は、現代にあてはめることはできません。
社会やその時代背景がまったく違うからです。
わたしたちの“あたりまえ”とアシュラの時代の“あたりまえ”は違う。
どれだけの人が「死にたくない、食べたい」と本気で願うことがあるでしょうか。
アシュラたちはいつ誰に殺されてもおかしくない混沌の乱世です。
人を殺さなきゃ自分を守らなきゃ生きられなかった時代だったのかもしれません。
考えると、わたしたちは言わば法で正義が決められた平和ボケの時代ともいえます。
毎日を何も考えずつつがなくすごすこともできるからです。
あたりまえをあたりまえとすることはどんなにおそろしいことでしょう
人はどこかに危機感を抱いていなければいけないのかもしれません
自らを律することが、人間らしく生きるということなのかもしれません

 人が人を食べる映画にしてはあと一歩が足りないとおもう

だって“飢え”の地獄はこんな、こんなもんじゃないはずだ!
その表情は、その身体は、わたしたちに想像できるはずがない。

 そう、映像が、アニメーションが、キレイすぎる!!

もちろんそれだからいいのかもしれません。  映画なんですから
だけど今現在にあれだけの残虐なシーンをつくっているからこそ惜しい。
この内容は、使い捨ての時代だからこそ生半可では伝わりっこない。
人の生死を分けるくらいのひもじい姿はきっと想像をかるく超えているはずです。
あれでは本気で食べたいなどとは思えない
それからラスト、あのラストは―
わたしたちが生きている今がそんな歴史の上に成り立っていると感じさせるラスト。
思わせぶりではあるけれどもリアリティがどうしても感じられなかった

「人でなし!」
その意味はわたしたちそれぞれが真剣に考えなくては見出せないものだとおもいます


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Taisuke [HOMEPAGE]