今日は、先生の呆れた顔からこんな声がかけられました。
「コンテンポラリーダンスを職業にしてるならカウント間違ってどーするの?」
まったくもってそのとおりw ちなみに、わたしが職業にしているものはカウントで踊っていません。 わたしの踊りは音を踊っているわけではないからです
そういうわけでこれこそがわたしにたりないもののひとつ
ないんだから修練を積むしかありません。 この場所であたりまえのことがわたしには“できない”のです。 わたしがつくる作品は大抵が無音で成立するものを目指しています。
存在のもつ輝きがどれほど際限ないものか、知っていますか
その世界には音が邪魔になる場合がある その輝きだけで満ち足りているからです 音がその輝きを引き出す“絶対”のものじゃない しかしカウントを、音楽を、踊りで極めれば無音でもきっと音が見出せるはずです それはダンスがもつ一つの究極の姿 でも、わたしの踊りはこれを目指すものではありません
自分自身の意識により深く集中した先に、生きている意味を、歓喜を踊りたい
だからこそ、その逆を知っておかなくちゃいけない、そう考えています。 わたしがこれまでやってきたのはいきなり無音で「踊れ」、です。 音よりも“踊りたい”その“衝動”こそが圧倒的に最先でした。 小手先で踊りらしいものを踊ると「そんなものは踊りじゃない」と罵声を浴びました。 踊るための技術的なもの一切が撥ねつけられてきたのです。
命がけで挑んできた人ほどその通ってきた道こそが唯一絶対のものとなります。 その修練が厳しければ厳しいほど“できる・できない”で人を分けるのです。 これはもうその種類に身を置く以上すべてを受け容れなくてはなりません。
でも答えは一つじゃない そうじゃない種類のものがある
過酷な毎日で積み上げてきた人にはその厳しさからか他を受容しない気質を感じます。 もちろんその場所ではそれしか敷かれていないのだから当然かもしれません。 技術が劣っていることで、いくらバカにされたっていい。
だけど、わたしはわたし自身が生きていることを侮辱されるおぼえはない
わたしは今でも卑下されたり揶揄されたりしながらも恥をさらしています。 これが“同じダンスという種類”でなかったらすぐにやめているでしょう。
どんな人からも見てもらえるダンスを踊りたい どんな人にもなにかが見出せるダンスが踊りたい わたしはダンスが好きだからこそ自分のダンスを肯定してやりたい
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