2/10、映画を見に行きました。
『J・エドガー』 だれよりも恐れられ、だれよりも崇められた男。
イーストウッド×ディカプリオ。 苦手なディカプリオでしたがイーストウッドなので仕方なく沈黙を破りましたw どれくらい苦手かって『タイタニック』を見ていないくらいです。 友人からはディカプリオを隠してでも見ろって言われましたが、無理だろそれ―
8人の大統領が恐れた男。 男の名は、J・エドガー・フーバー(FBI初代長官) その手に握っていたのはアメリカ中の秘密。
母親から“強くなること”を叩き込まれて育ったエドガー。 その正義をふりかざして国家をまもろうとします。 国家を守るには強くならなければならない。 強い組織を自らつくりあげます。 今日では当たり前とされる科学捜査の基礎を確立。 犯罪者の指紋管理システムをもつくったのです。 そのうち物語は妙な様相を為していきます。 どこからかその性格は絶対者に―
その正義はどうみても歪んでいきます
異常、異常です。 それよりも歪んでいるのは性格じゃないのか ですがそんな人間でなければ現在をつくれなかったでしょう。 時代が、そして国家が正義を必要としていたのです。 それを利用して、強大な力を結果として得てしまった人間かもしれません。 わたしはそんな人物の幸福がどこにあるのか見極めようとした。
面白かったシーンがあります。 エドガーはFBI新職員全員の身なりをチェックします。 そして極端に服装の趣味・装いが悪い者すべてをクビにしました。 エドガーは仕事に向き合う姿勢をその身なりに求め、判断したのです。 大事なのは人からどう見られるか。 外見も大事だということです。 それは国家を守る、もしくは国家の正義を執行する仕事だからでしょう。 これはなかなか面白かった。 わたしは唸りました。 仕事ができる、ただそれだけではダメなんです。 それは、外見が仕事をたしかなものにするという逆転の論理でした。 権力が強くなればなるほどエドガーの信念は狂信的なものになっていきます。 国家を守るためには法を曲げてもかまわない―
その信念におしつぶされるように終わるラスト
わたしにはどうしてもエドガーが幸せだったとは思えない。 いわゆる“やらねばならない”ことに満たされていた人生です。 そんな人生に前のめりで死んでいったのです。 しかし、ひとつ言えるのは“やらねばならない”ことがあったということです。 自分の“役割”を見出し、まさに死ぬまで生きた事実。
これを幸せと呼べるか
どうやらわたしの心眼はここにたどりついたみたいです。 その幸せは、安らぎをまったく前提としません。 おそらく本人は“たりていない”の連続でしょう。 やりつづけるものがある人間はある意味で幸せだといえるのではないでしょうか。 すくなくともなんにもない人生と、なにかがあるというのは生きる様相が全く違います。 なによりもやりつづけることができる人がどれくらいいると思いますか? 自分の信念を貫くことは困難の連続です。 実のところ、他人からみえる幸せなど本人とはまったく関係がありません。 じゃあ人から幸せだと思われたいってどういうこと? …単なる自己満足だな、きっと わたしは幸せになりたい ひとから幸せだと思われたいわけじゃないんです エドガー個人の安らぎはこの映画をみる限り、一般的なものではまったくありません。 幸せがなにか見極めようとしましたが、その見方自体が間違いかもしれない。
考えれば考えるほど幸せをみる映画じゃない
これは他人の生き様だ。 こういう人間がいた、そういう映画なんだ もういいとかわるいとかの話ではありません。 誰にどう捉えてもらってもよいほどに淡々とつくりこまれているのです。 イーストウッドの映画は明快ではないところが本領のような気がします。 なによりも人間が生きるということ自体、簡潔明瞭ではないのですから。 この点ではわたしがつくるダンスも同じ見解です
ただ、やりつづけるものがあるというのは“偉い”わけではありません ここは間違っちゃいけないところです これしかやれない、それはとっても不器用な生き方でもあるからです
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