日曜日、斉藤先生が来飯され、レッスンをうけた。
最初、今取り組んでいるブラーヴェのソナタ、アダージオを1回通して吹いている途中、「あ、違う、違う」と思っているうちにあごががくがく、口がプルプルと震えだし・・・最悪に・・・。
そして先生としばし、どうして緊張するのか、震えるのか、という話。 とりあえずの結論としては、この部分はこう吹こう、この音はこう鳴らそうと考えすぎること(そこまでは言われなかったが、きっと、そういうことは考えなくても自然にできるほどに吹き込んであるべき、はっきり言って足りなかったと思われる)が1つの原因。それは邪念とまではいかないが、そのために、もっと大切な大前提を思うことがおろそかになる。もちろん、思いっきり邪念・・失敗、それを先生に聴かれた、後悔、そういった邪念もいっぱいあった。 息の支え。息の道の確保。テンポ感。拍子感。 これをいつも意識し保つよう努力していれば、邪念に気持ちが惑わされるような暇はないはずだ。
そして曲のレッスン。 私のもっとも悪い癖として、雅楽をやっていたことでついた、「後押しの癖」があげられる。日本音楽は音になり始めてから息を増やし、音を厚くしていく習慣がある。しかし西洋音楽は、拍頭でもっとも安定した厚い音を鳴らす。ピアノは一見減衰する特性があるため、管とはまた違った音の残り方をするが、西洋音楽のそういった捉え方から見れば同じなのだ。 頭でぽんとのるために、その前の準備はもちろんのこと、乗った後息を減らすことも大切なのに、私の場合、恐る恐る(特に高音でピアノとくると)のり、ああ、よかった、のったと思い気が緩んで無駄に息を使う。そのせいで、次に跳躍して低い音域の音が現れると、息が増えてしまっているために不安定な音になってしまうのだ。 1つの音は頭から安定→その音の後半は次の音への準備。この正しいサイクルが、頭からのれないで後半安定、調子に乗って必要以上に安定させたがる、よって準備がたりない→そのまま次の音へ。当然不安定。 こんな間違ったサイクルで吹いているため、テンポはあっているのだが、後ろへどっこいしょ、どっこいしょ、としりもちをつきながら曲が進む感じに聴こえてしまうのだ。 さらにその感じは、息のスピードがいまいち遅いせいが原因でもある。決して多く使わないが、スピードはいつも確保。そして通り道は確実に。
と、曲のレッスンも、当然息の入れ方のレッスンが中心になる。
が、おやさしい先生、基礎と曲は切り離すべきではない、曲の中で学ぶほうがいい、とおっしゃり、こんな私にも、曲のレッスンをつけてくださる。
前回注意されたことが、まだまだ、ということが多い。 前打音に息をいれ、次の音では引くことも、ちゃんとできていない。 息を取るタイミング(小さいフレーズの切れ目)に休符があっても、大きいフレーズの途中であるなら、休符として大切にとらえる。決して息取りで休符を音楽的でないものにしないように。逆に大きいフレーズの最後は、休符が書かれていなくても、しっかり息を取り、フレーズ感を際立たせる。 そしてその大きいフレーズの最後が終止形であるなら、記譜されてなくても終始に向かう音にはトリラーを自分の判断でつけるべきだ。 ・・・などなど、それこそ山のように課題が残っている。 それにしても、確かに楽譜としては実際に演奏されるようには完全にかかれていない時代のものなので、トリル一つとっても悩んでしまうのだが、先生はいろんなところに、すばらしく魅力的に、さりげなく効果的にトリルや前打音を加えて吹いてくださる。即興で。私が持ち込んだ楽譜で、先生がこれをやりましょうと準備してあったものではない曲なのに、ぱっとすばらしく演奏なさるのだ。そしてまた違う次元の話だが、前回コピーを取ってお渡ししたものを、ちゃんと持参してくださっている。「伴奏譜はないの?」と聞かれ、持参しなかった自分に反省。次回はコピーして、製本してお渡ししなければ。
たーくさん反省と課題を抱え、また決意を新たにしたのであった。次回、少しでも進歩した状態で先生とお会いしたなぁ。
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