ぴんよろ日記
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2013年04月08日(月) 微粒物質としての記憶

 こないだの沖縄旅行のいろんなできごとの中で、ずーっと心を離れないのは、ローズガーデンでよぎった感覚。ローズガーデンというのは、米軍基地の人とその家族御用達のお店なのだが、名物の朝食セット(トーストとカリカリのでっかいベーコンとスクランブルエッグとでっかいマグカップに入ったコーヒー)を食べている時、味わったことのない感覚に包まれてしまった。それは、簡単に言ってしまえば「なつかしさ」の一種だと思うのだけど、ガイドブックやタウン誌の三流コピーにありがちな「初めてなのに、どこか懐かしい雰囲気」っていうようなものではなく、自分の中に存在する「なにか」が、この店にある「なにか」と「久しぶりに会えてとってもうれしい!」とよろこんでいる感じだった。
 アメリカ的なものにほんの少しの影響も受けていない日本人は、まず存在しないだろう。だから、たとえアメリカに行ったことのない私のようなものでも、音楽やらなにやらを通じて、心と体のあちこちに「アメリカ」がインプットされているには違いないのだが、そのとき「反応」した「なにか」は、もっと違っていて「実際に触れたことがある」という感覚をともなった「なにか」だった。
 で、これってなんだろう…ひょっとしたら…と思いついたのは「記憶というものは、本当は微粒物質で、子や孫にも物理的に伝わっていく」というトンデモ感あふれる考え。というのも、私のひいじいちゃんは、長い間アメリカにいたことがあるからだ。ひいじいちゃんは私が小学校に上がる前に亡くなって、しかも寝たきりの姿しか覚えていない。でも「いぬは?」「dog」「ねこは?」「cat」「はなは?」「flower」というやりとりを、100回はした。あまり長くは話せない寝たきりの老人と、なにを話していいかわからない小さな子どもだから、たとえばアメリカでどういう暮らしをしていたとか、どんなものを食べていたとか、どんなところに住んでいたとか、そういうことはまったく聞いたことがない。「ほら、今はおじいちゃん起きとんなるよ。また聞いてみたら?」と言われて「いぬは?」「ねこは?」「はなは?」を繰り返しながら、柱に登って見せたりしただけだ。けれどそんな時間の中で、ひいじいちゃんが持っていた「アメリカで過ごした記憶の粒子」が私の中にも潜り込んだのかもしれないと思うのだ。だから、翻訳されたものではない「生のアメリカ粒子」が濃厚に漂うローズガーデンで、私の中に眠っていたひいじいちゃんの記憶が「Oh!」と目覚めたのではないかと。
 もちろん真偽のほどはまったく不明だが、感覚としては、極めてそんなふうな体験であった。

 でも「記憶は微粒物質」というのは、案外そうなんじゃないかと思う。そしてそれが積もりやすい、残りやすい土地と、そうでない土地があって、長崎は絶対的に前者なので、私のように「見える人」から「霊感はありません」と宣言された人間でも、街のあちらこちらに、まさしく「重箱の隅」に吹きだまり、こびりついている気配を手がかりにして、昔のことを考えたりしたい人には助かります。(ということは、そんな趣味もなく、ただ『見える』人にとってはきつい土地ということか…。)
 


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