ぴんよろ日記
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久しぶりに、静かな一日。みんなを送り出したあと、ここ数日で散らかっていた部屋を片付け、ここ数日外食ばっかりだったので、いろんな野菜を刻んでスープを作る。 10月に入って、ぜんぜん落ち着かなかった。でもそれは、素晴らしい出来事や、祭りや、楽しい時間がめまぐるしく行き来していたからで、体は疲れたが、気持ちはチャージされている。いや、体の疲れも、今朝起きてみたらほとんどなかったのだ。足を上げて寝たのも良かったか。
ところで「いつものカメラ」をフィルムカメラにして、思っていたよりもずいぶん、心のある部分が静かだ。「むやみに撮らない」「ひとつのシーンでだいたい1枚だけ」「その場で見られない」「やがて物体として手にできる」というようなことは、精神衛生上、かなり「効く」ようだ(心配性の現代では反対に思われているが)。私は「仕事柄」ということもあり、10年以上、デジカメで山のように写真を撮ってきた。それによって、思いがけず失ってきたこと、そこねてきたものが、どうやら確実にあるようだ。世の流れからはまったくもって逆行だし、仕事の中でデジカメを使うことは当然あるが、もう「戻る」ことはないと思う。
写真といえば、今年も「いとう写真館」で家族写真を撮った。去年とおととしは、まったく普通の格好だったけれど、今年は、子どもらはくんちの衣装、私は着物、ダンナも一応それなりに。みんなでカメラの前に立ったら、写真家の伊東さんのいつものニコニコが、ふっと静かに引き締まって、「これはちゃんと撮ろう。これはちゃんとだ。ちゃんと行きましょう」と、なにやらレンズも交換して、ふたたび「ちゃんとがいい。これはちゃんとで」と、撮ってくれた。 装束が「絵になる」とか、そういうことでは、ちょっと説明がつかない感じだった。祭りが持つ、一種の「凄み」みたいなもの…も、たぶん、作用していたと思う。その、祭りの時間が持つ長い長い縦糸に、小さい子どものいる家族の極めてはかない横糸がバシーンとスパークした瞬間だったのだろう。このところ、写真の力の大きさにあらためて驚いたりしているのだが、それを仕事にするということは、永遠と一瞬を司る、じつに恐ろしい立ち位置だと思う。ひと目でクセのある人や、やたらいい人が多いのも納得だ…。
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