ぴんよろ日記
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2011年04月22日(金) 根こそぎ

 図書館に本を返しにいく。市立図書館のあるところは、私が6年間通った小学校があったところだ。だから、そこに立つと、ふうっと素直な感覚になる。「子どもに返る」という言葉から受ける印象とは、ちょっと違う。そんな「大人の自分の頭の疲れをしばし取る」といったケチな話じゃなくて、笑ったり泣いたり、そういうことがまるごと存在できていた空間にあって、体のレベルで感じる安心感。小学校の建物がなくなるときは悲しかったけれど、こうして「そこ」に立ってみると、ちゃんと、ほっとできる。それは「ここに小学校があった」という頭の理屈によるものではなくて、土地と体の結びつきのような気がしてならない。
 人間と土地の関係については、いまも通っているおっぱいマッサージの先生から聞いた「土地の食べ物と母乳」の話から、現代人の見積もりよりもはるかに強く結びついていると考えている。長崎の人が食べてもオッケーな魚が、2〜30キロ離れた土地では、微妙に母乳を不味くするとか。人間は、自分たちが気取っているほど根無し草ではなく、もっともっと「植物」な生き物なのだ。世界のどこかに、人間の形をした草が生えていて、毒薬作りかなんかに使われるんだけど、引っこ抜く時の悲鳴を聞いたら死んでしまうとか、そういうやつがあったと思うのだけど、本当はだいたいの人間が、そういうものなんだろう。だからこそ「根無し草」という言葉が「変人」の一種として存在するのではないか。
 だから今回の震災で、生まれ育った土地から多くの人が引っこ抜かれ、引きはがされていること、その土地自体が放射能に侵され続けようとしていることは、単に「代わりの家や土地はどこにしよう」とか、また、「目に見えるふるさと」が失われてしまう、という問題よりも、もっと深いところで、彼らを傷つけ、損なっているのかもしれない。仮に家がなくなり、木が倒れ、地形が変わってしまっても、「地球上におけるそのポイント、エリア」に立つことさえできれば、そこに根を持つ人間の体や心のエネルギーの大切な部分はチャージできるのではないか。だとしたら、そのポイントを、エリアを、何十キロ四方にも渡り、大勢の人が一度に奪われる(しかも目には見えない放射能によって)今回の事態は、地球上のどんな生き物も体験したことがない「喪失」なのではないだろうか。
 ちなみにその私の小学校は、原爆の時は救護所となっていたので、現在は小学校の内装の一部が血まみれの被爆者の写真とともに展示されているが、私にとっては楽しかった6年間の思い出そのものである。その校舎で何人の被爆者が死んだか知らないけれど、そこに通った私にとって、あの場所はかけがえのない、自分の「根」があるところだ。どんなにひどいことが起こったとしても、それは変えられない。だからそれを、しかも町ごと「根こそぎ」奪われることが、どれだけ悲しいことなのだろうと、本を返した帰りに、気が遠くなってしまった。


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