ぴんよろ日記
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2011年03月22日(火) 弔い

 今度の地震で、特に情報というものに対して、たくさんの人が思いを新たにしたのではないだろうか。どういう媒体や発言者にどういう特色(良くも悪くも)があり、どの程度までを信じたり参考にしたりするべきなのか、というようなこと。そして、情報に限らず、さまざまなものごとに対する「優先順位」が見えたのではないか。それを声高に宣言したりあげつらうこともない。これからの生活の中で、そっと実践していけばいいのだ。
 近所の「さくらまつり」が中止になった。私は今回の地震に関しては何の被害も受けていないけれど、長崎大水害の時のことなど思い起こして考えてみるにつけ、「あなたたちのことを思って花見をやめました」と言われても、たぶん「はぁ?」という感じではないだろうか。「春になったら家族や友だちと花見をする」というようなことこそが、どれだけ大切で得難い幸せだったかと思っているところに、したり顔で「それ、やめてみました」って言われたら、やめるほうはいいことした気になるかもしれないが、むしろ腹が立つのではないだろうか。もし、水害のときに、「被災地の子どもたちのことを思って、プールに行くのやめました」って言われてたら、かなり「???」だったと思う。「それとこれと、何の関係があるの?」って。水害の時は無責任な子どもだったから、むしろ楽しくさえあったし、当事者は、どうあがいたって当事者なので、当事者として、その「悲劇」の中にも光を見つけようとするものだ。うわべだけで悲しみや苦しみを共有するのは、何の役にも立たない。今後、被災地に桜が咲けば、できる人は花見をするだろう。(そしてカメラは、すかさずそれを撮るだろう。アナウンサーは「ひととき、震災の悲しみを忘れ…」とかなんとか言うだろう。)
 今年の花見では、きっと地震の話になる。そうじゃなくても、それぞれの心によぎるだろう「花が咲いて花見ができるのって、なんて幸せなことだったんだ」って。それこそが当事者ではない人間の「弔い」というものだと思う。


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