ぴんよろ日記
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家を移って変わったことはいろいろあるのだけど、これまで使ってなかったお皿が急に活躍したり、ということがある。家だけの問題じゃなくて、ごはんを食べる人間の事情が変化(朝ごはんに必ず塩おにぎりを食べる男児出現、など)したとかいう要素もあるのだろうけど、空間と器、この部屋だから出したくなっちゃう皿、というようなことも、きっとからんでいる気がするのだ。 たとえ息をしていないものでも、それにはやはり固有の「生命」があって、当然、相性その他も発生すると思う。超高級フランス料理屋さんで出前の中華ドンブリが出てきたらギョッとすることを考えれば、そりゃそうなんだけど、そういう目に見える意匠とかいうことにとどまらない存在感の周波数みたいなものまで含めたもの。それが心地よく響きあうか、なんかよくわかんないけど、おさまり悪いのか。 目に見える形や意匠を超えた「存在の周波数」があることについて強烈に確信したのは、何年か前に東京まで見に行った青山二郎展でだった。彼が「一夏のヨット生活」と交換したりしていた器…写真で何度も見たことがあったはずの杯や皿や印刷物は、思っていたのよりも遥かに遥かに密度というか解像度が恐ろしく高く、ちっこいぐい呑みひとつにも宇宙が圧縮されているようだった。何度も刷りなおしたといわれる名品録は、昨今の印刷物がみんな新聞紙に見えてしまいそうな繊細さだった。そしてここに並んでいるもののどれひとつとっても、自分の部屋には置けないと思った。不釣り合い…と言ってしまえばそれまでなんだけど、波長がちがうのだ。もしこのぐい呑みを持ちたいのなら、部屋をぜーんぶ変えないといけないだろうな、と。そしてこういうハイレベルの骨董を手元に置く人々も、やはりそれなりの強いエネルギーを持っているのだろう。そうでなければやられてしまう。物の力はおそろしい。現代の人は、物を物としか思っていないけれど、物には絶対に命がある。「家は住まないと傷む」というのも、空気がよどむとか、そういうことだけのものじゃないはずだ。 家も、そこにある人も物も、お互いにエネルギーをやりとりしていると思う。境目はもっとゆるい。
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