ぴんよろ日記
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2009年08月06日(木) 私にはひどい場所じゃないのです。

 私が通った新興善小学校は、今はもうない。小学校があった土地には、建物の形が少しだけ似ている市立図書館が建っている。そして、その中には「原爆のときの救護所」としての新興善小学校の内装の一部が保存されている。薄緑色に塗られていた廊下の柱の木の部分とか、室内の窓枠とか。窓枠の、ガラスがはまっていた部分には「救護所」だった時の説明や、「食事の前には見たくないな…」と思う人が大勢であろう、被爆者の写真が収まっている。
 ここが原爆のときの救護所だったのは事実だし、私が小学生の時にも、門のそばにはそれを伝える石碑があった。でも、私が小学生の時には、ここは小学校だったし、ここに立って、この角度で住友生命ビルや県庁が見えれば、体のどこかが小学生に戻る。
 だけどもう、この場所は、急速に「原爆のときの救護所だったところ」になりつつある。「場所」は図書館でもあるけれど、「救護所コーナー」に「展示」されている柱の板や窓枠は「悲惨なできごとに立ち会ったもの」としての役割が、そのほとんどを占めている。「当時を知る貴重なもの」として、触ることも禁じられている。廊下を歩きながら、いつでも触っていた薄緑色の板。
 統廃合で小学校が無くなったのも、しょうがない。「救護所跡」として伝えられていくのも、大切なことだ。私が小学校にいたころも、原爆にまつわるいろんな「伝説」があった。でも、幼いころの自分がいろんなことをして、いろんなことを思った場所が、どんどん「ひどいことがあった場所」だけになっていくのが寂しい。長年立ちこめていたはずの子どもの匂いと給食の湯気は、60数年前の一夏の消毒液と死臭のイメージにかき消され、その陰に隠れて好きな男の子を見ていた柱の板が、火傷と蛆にまみれた人を見守ったということだけになっていくのがせつない。
 でも、それでも、本当ならば消えてなくなっているはずの「現物」が、そういう形ででもあるというのは、見るたびにうれしい。どんな写真が貼られていても、懐かしい窓枠があるのはうれしい。そうやって、図書館に行った時、3回に1回くらいは「救護所跡コーナー」に寄っては、「彼ら」に「私にとっては、ただ、懐かしいんだよ…」と伝える。


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